マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 03:40 UTC 版)
「岸波 (駆逐艦)」の記事における「マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦」の解説
詳細は「マリアナ沖海戦」を参照 6月中旬までに、連合艦隊の大部分の戦力はタウイタウイ泊地に集結した。6月19-20日のマリアナ沖海戦で、第31駆逐隊は第二艦隊を中心とする前衛部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官。旗艦「愛宕」)に所属した(海戦の経過は当該記事を参照)。前衛部隊は20日に対空戦闘をおこない、損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出した。日本軍は海戦に敗れた。前衛部隊は沖縄・中城湾を経て、24日に柱島泊地に帰投した。 マリアナ諸島の戦局が悪化する中、日本海軍は南西方面に第一遊撃部隊(第二艦隊基幹)の主力を移動させることを決めた。7月8日、第一戦隊(大和、武蔵)、第四戦隊(愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海)、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、駆逐艦部隊(岸波、沖波、朝霜、長波、浜波、島風、時雨、五月雨)をもって編成された「甲部隊」として内海西部を出撃、第31駆逐隊は第四戦隊の護衛に当たった。沖縄に立ち寄って輸送物件をおろし、第31駆逐隊は武蔵から燃料を補給した。7月16日、甲部隊はシンガポールとリンガ泊地に進出、乙部隊や輸送作戦に従事していた小部隊も7月末までにはリンガ泊地に到着した。以後、遊撃部隊はリンガ泊地で訓練にはげむ。8月中旬になると、第31駆逐隊はシンガポール~クチン(ボルネオ島)間の船団護衛任務に従事した。 詳細は「レイテ沖海戦」を参照 10月18日、日本軍は捷一号作戦を発動した。第31駆逐隊は第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦「愛宕」)が率いる第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、通称栗田艦隊または栗田部隊)の第一部隊(第四戦隊〈愛宕、高雄、摩耶、鳥海〉、第一戦隊〈大和、武藏、長門〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈軽巡〔能代〕、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波、朝霜、長波〕、第32駆逐隊〔浜波、藤波〕、島風型〔島風〕)に所属した(海戦の経緯と推移は当該記事を参照)。第一遊撃部隊はリンガ泊地からブルネイ湾に移動し、補給をおこなう。22日、西村部隊(第二戦隊司令官西村祥治中将)と補給部隊をブルネイ泊地に残し、栗田艦隊は同地を出撃した。 23日未明、栗田艦隊はパラワン水道で米潜水艦ダーターとデースの攻撃を受けた。第二艦隊旗艦の重巡愛宕はダーターの魚雷攻撃を受けて航行不能となり、第一部隊の中央にいた岸波と朝霜は救援命令を受けて愛宕に接近した。愛宕に横付けを試みたが、急傾斜のため接舷できなかった。愛宕は午前6時53分に沈没し、生存者は岸波と朝霜に救助された。岸波には栗田中将や小柳冨次参謀長ら第二艦隊司令部も泳ぎ着き、200名以上の将兵と愛宕の御真影が移乗した。栗田長官は岸波を臨時の第二艦隊旗艦としたが、実際の指揮は第一戦隊司令官宇垣纏中将が戦艦大和より代行している。この日、米潜水艦デースの攻撃で重巡摩耶が沈没、ダーターの雷撃で高雄が航行不能になった。高雄は朝霜と長波の護衛下で戦場を離脱した。同日午後3時以降、岸波は大和に接舷して栗田長官ふくめ第二艦隊司令部を移乗させる。大和と岸波は洋上に停止したが、安定している大和に対し、岸波は波の影響により常に動揺していた。そこで、栗田長官等はロープを使って岸波から大和に引き上げられている。栗田長官は大和に将旗を掲げ、大和は第二艦隊旗艦と第一戦隊旗艦を兼ねることになった。 栗田艦隊は24日にシブヤン海で空襲を受け、武蔵が沈没する。ほかに重巡妙高と駆逐艦浜風および清霜が損傷および武蔵生存者救助のため艦隊を離脱した。25日、栗田艦隊はサマール島沖で米護衛空母部隊を追撃するが、岸波など第二水雷戦隊に大きな戦果はなかった。レイテ沖海戦は、日本の大敗で終わった。二水戦は、軽巡能代と駆逐艦藤波および早霜を失った。岸波は小破認定であった。戦場離脱中、燃料が不足した駆逐艦5隻(岸波、島風、浦風、浜波、秋霜)はコロン島でタンカー日栄丸や重巡洋艦那智から燃料を補給した。
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