ベルナドット夫人とは? わかりやすく解説

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ベルナドット夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 06:48 UTC 版)

デジレ・クラリー」の記事における「ベルナドット夫人」の解説

フランス帰国後、姉夫婦と共にパリ居住した。彼女はボナパルト家集まりの中で暮らしており、彼らはナポレオンの妻となったジョゼフィーヌ対し悪感情抱いていた。デジレ当初良い感情持っておらず、一説ではジョゼフィーヌの事を「年老いた高級娼婦のような評判の悪い女性」と口にしたと伝えられるが、その他のボナパルト家面々違いあからさまな敵意見せる事はなかった。また、彼女の娘のオルタンスとは仲が良かったという。 1798年デジレ義兄ジョセフの縁で、ジャン=バティスト・ベルナドット出会う彼もまた革命戦争で名をあげた将軍にして政治家だった。デジレベルナドット同年8月結婚をした。ジョセフエジプト出征中のナポレオン手紙二人結婚について伝えている。結婚当初二人様子についてローラ・ジュノーは、デジレベルナドットが家に居ないと言って泣き、居る場合でもまた出かけてしまうと言って泣いてばかりいたと回顧録描写している。一方その妻からの愛情を受ける夫については、「ロマンスヒーローめいた要素微塵も持ち合わせていないこの哀れなベアルン人は、彼女の態度戸惑っていた」と述べている。翌年7月デジレ二人の間の唯一の子供となる息子オスカル出産するオスカル名付け親ナポレオンだとの通説があるが、オスカル生まれたナポレオンはまだ出征中であり、実際名付け親オスカル後見役務めたジョセフではないか推測されている。 ナポレオン権力を掌握する契機となるブリュメール政変時、ボナパルト家面々ベルナドットナポレオン陣営組み込もうと、デジレ利用してその夫に影響力及ぼそうとした。後年ナポレオンは、デジレについて、本人無自覚なままスパイ務めていたと述べている。ベルナドットはそれに気づいており、妻の前では自身計画について口に出す事はなかった。後年ベルナドット家族つながり政変中の彼の行動消極的にしたと述べている。クーデター時、デジレ少年扮装をして夫と共に郊外部下の家に避難した。彼女はジュリー絶え連絡取り合っており、その後ジョセフ仲裁得てパリ帰還したデジレ政治関心無かったが、双方つながりを持つ事から、夫とナポレオンとの間の政治的駆け引き傀儡となった1802年ナポレオン対す謀議発覚しベルナドット疑念抱いたナポレオンデジレ尋問するデジレは夫は無関係だ告げたが、彼女は彼が家でモロー会っていることを知っており、寝言モローの名前や謀議について口にするのを聞いていたという。その後ナポレオンベルナドットルイジアナ総督任命して追い出しを図る。夫妻出発準備をしていたが、最終的に任命取り消された。 1804年ベルナドット元帥任命されると共にその妻のデジレ元帥夫人として相応扱いを受けるようになった。しかし、デジレは姉のジュリー同様に社会的地位頓着しなかったとされるナポレオンデジレパリアンジュー通り居館に住むことを許可した同年12月ナポレオンの戴冠式では、皇后ジョゼフィーヌハンカチヴェール捧げ持つ役を務めた元帥となったベルナドット任務でほとんど国外におり、彼はパリの妻に教養芸事作法を身につけ上流集まり顔を出す事を望んだデジレボナパルト一族とは良好な関係にあったが、夫の言いつけに従ってナポレオン宮廷出仕することも、参加することもなかった。また、彼女は遠方の夫にパリ政治的状況について手紙知らせていた。家族以外ではスタール夫人レカミエ夫人らと交流があった。彼女達は夫にとっても政論を交わす仲間であったこの頃の彼女は、可愛らしく朗らかで、ダンスが上手との評判得ていたが、社会的に無名存在だった。またこの時期一家友人であり、夫がエスコート役として付けたコルシカ人のシャッペとの親密様子人の噂上ったことで、夫から行動を自重するよう手紙受け取っている。ベルナドットハノーファー総督ハンザ都市総督務めていた時に彼を訪ねて行ったが、いずれの場合長く滞在しなかった。彼女は実の家族がいるパリ離れるのを好まず、夫がポンテ・コルヴォ公に叙爵された際も、爵位名目だけで、同地に行く必要がない知って安心した1807年には傷病負った夫の看病のため、シュパンダウマルボルク赴いている。 1810年8月、夫のベルナドットスウェーデン議会によって同国王位継承者選ばれる。夫がカール・ヨハンとしてスウェーデン王太子となるに伴いデジレ王太子妃になった地位の向上に伴い宮廷にて厚遇を受けるようになったのは喜んだが、王太子妃称号ポンテ・コルヴォ公妃同様に名目だけの称号思っており、スウェーデンに行かねばならない知った時、フランス以外の国について無知である彼女は大い躊躇した。彼女は9月30日パリ出立した夫には同行せず、彼のスウェーデン到着とその反応知らせ待ってから息子オスカルと共にスウェーデン向けて出発した

※この「ベルナドット夫人」の解説は、「デジレ・クラリー」の解説の一部です。
「ベルナドット夫人」を含む「デジレ・クラリー」の記事については、「デジレ・クラリー」の概要を参照ください。

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