ベルナドット夫人
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「デジレ・クラリー」の記事における「ベルナドット夫人」の解説
フランスに帰国後、姉夫婦と共にパリに居住した。彼女はボナパルト家の集まりの中で暮らしており、彼らはナポレオンの妻となったジョゼフィーヌに対し悪感情を抱いていた。デジレも当初は良い感情を持っておらず、一説ではジョゼフィーヌの事を「年老いた高級娼婦のような評判の悪い女性」と口にしたと伝えられるが、その他のボナパルト家の面々と違い、あからさまな敵意を見せる事はなかった。また、彼女の娘のオルタンスとは仲が良かったという。 1798年、デジレは義兄ジョセフの縁で、ジャン=バティスト・ベルナドットと出会う。彼もまた革命戦争で名をあげた将軍にして政治家だった。デジレとベルナドットは同年8月に結婚をした。ジョセフはエジプト出征中のナポレオンに手紙で二人の結婚について伝えている。結婚当初の二人の様子についてローラ・ジュノーは、デジレはベルナドットが家に居ないと言っては泣き、居る場合でもまた出かけてしまうと言って泣いてばかりいたと回顧録で描写している。一方その妻からの愛情を受ける夫については、「ロマンスのヒーローめいた要素を微塵も持ち合わせていないこの哀れなベアルン人は、彼女の態度に戸惑っていた」と述べている。翌年7月、デジレは二人の間の唯一の子供となる息子オスカルを出産する。オスカルの名付け親はナポレオンだとの通説があるが、オスカルが生まれた時ナポレオンはまだ出征中であり、実際の名付け親はオスカルの後見役を務めたジョセフではないかと推測されている。 ナポレオンが権力を掌握する契機となるブリュメールの政変時、ボナパルト家の面々はベルナドットをナポレオン陣営に組み込もうと、デジレを利用してその夫に影響力を及ぼそうとした。後年ナポレオンは、デジレについて、本人は無自覚なままスパイを務めていたと述べている。ベルナドットはそれに気づいており、妻の前では自身の計画について口に出す事はなかった。後年、ベルナドットは家族のつながりが政変中の彼の行動を消極的にしたと述べている。クーデター時、デジレは少年の扮装をして夫と共に郊外の部下の家に避難した。彼女はジュリーと絶えず連絡を取り合っており、その後ジョセフの仲裁を得てパリに帰還した。 デジレは政治に関心は無かったが、双方につながりを持つ事から、夫とナポレオンとの間の政治的駆け引きの傀儡となった。1802年、ナポレオンに対する謀議が発覚し、ベルナドットに疑念を抱いたナポレオンはデジレを尋問する。デジレは夫は無関係だと告げたが、彼女は彼が家でモローと会っていることを知っており、寝言でモローの名前や謀議について口にするのを聞いていたという。その後ナポレオンはベルナドットをルイジアナ総督に任命して追い出しを図る。夫妻は出発の準備をしていたが、最終的に任命は取り消された。 1804年、ベルナドットが元帥に任命されると共にその妻のデジレも元帥夫人として相応の扱いを受けるようになった。しかし、デジレは姉のジュリー同様に、社会的地位に頓着しなかったとされる。ナポレオンはデジレにパリのアンジュー通りの居館に住むことを許可した。同年12月のナポレオンの戴冠式では、皇后ジョゼフィーヌのハンカチとヴェールを捧げ持つ役を務めた。元帥となったベルナドットは任務でほとんど国外におり、彼はパリの妻に教養や芸事、作法を身につけ上流の集まりに顔を出す事を望んだ。デジレはボナパルト一族とは良好な関係にあったが、夫の言いつけに従って、ナポレオンの宮廷に出仕することも、参加することもなかった。また、彼女は遠方の夫にパリの政治的状況について手紙で知らせていた。家族以外ではスタール夫人、レカミエ夫人らと交流があった。彼女達は夫にとっても政論を交わす仲間であった。この頃の彼女は、可愛らしく、朗らかで、ダンスが上手との評判を得ていたが、社会的には無名の存在だった。またこの時期一家の友人であり、夫がエスコート役として付けたコルシカ人のシャッペとの親密な様子が人の噂に上ったことで、夫から行動を自重するよう手紙を受け取っている。ベルナドットがハノーファー総督とハンザ都市総督を務めていた時に彼を訪ねて行ったが、いずれの場合も長く滞在しなかった。彼女は実の家族がいるパリを離れるのを好まず、夫がポンテ・コルヴォ公に叙爵された際も、爵位は名目だけで、同地に行く必要がないと知って安心した。1807年には傷病を負った夫の看病のため、シュパンダウとマルボルクに赴いている。 1810年8月、夫のベルナドットがスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選ばれる。夫がカール・ヨハンとしてスウェーデン王太子となるに伴い、デジレも王太子妃になった。地位の向上に伴い宮廷にて厚遇を受けるようになったのは喜んだが、王太子妃の称号はポンテ・コルヴォ公妃と同様に名目だけの称号と思っており、スウェーデンに行かねばならないと知った時、フランス以外の国について無知である彼女は大いに躊躇した。彼女は9月30日にパリを出立した夫には同行せず、彼のスウェーデン到着とその反応の知らせを待ってから息子オスカルと共にスウェーデンに向けて出発した。
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