ドイツ軍の防衛対応
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「ノルマンディー上陸作戦」の記事における「ドイツ軍の防衛対応」の解説
連合軍侵攻の司令部への第一報は、午前2時11分に第716師団から第84軍団司令部への「パラシュート部隊がオルヌ川東岸に降下した」というものであった。この一報があったときには、司令官のマルクスの誕生日サプライズパーティーのあとで、マルクスと参謀らは本日の図上演習の準備中であった。この一報はまるで「雷の一撃」のようで、報告を聞いたマルクスは身体を固くしたが、マルクスは速やかに第7軍のベムゼル参謀長に報告した。ベムゼルはこの空挺作戦は上陸作戦の前哨戦だと判断すると、すぐにB軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将を電話で叩き起こし、「パラシュート降下は、重大な攻撃作戦の先駆をなすものだ。そのうえ、海上には船の機関の音が聞こえる」と報告した。しかし、ノルマンディーから遥か遠くにあるラ・ロシュ=ギヨンのB軍集団司令部には戦闘の切迫感を感じ取ることができず、シュパイデルは「敵の行動はまったく局地的なものである」と判断し、ドイツの自宅で就寝中の司令官のロンメルにも報告しなかった。 同じころに前線から西方総軍司令部へ、空挺部隊と戦闘中で10人あまりの捕虜もとったという報告が上がっていたが、同時に連合軍が欺瞞作戦で多数の空挺兵に偽装した藁人形が大量に投下されているという報告もあっており、西方総軍のボド・ツィメルマン作戦部長は、捕虜になったのは撃墜された爆撃機の搭乗員であり、「敵の行動は大規模な空挺作戦とは思えない。ドーバー海峡にいる海軍司令官によれば、敵は藁人形を投下しているだけに」と連合軍側の欺瞞作戦にひっかかって、誤った判断を下して就寝中の司令官のルントシュテットには報告しなかった。他にも、様々な報告が各ドイツ軍司令部に寄せられたが、規模の報告は錯綜しており、また、これまでの連合軍による欺瞞作戦が功を奏して、他のドイツ軍司令官や幕僚たちもパ・ド・カレーへの本格的上陸作戦に対する陽動作戦に過ぎないという見方をする者も多く、夜が明けるまでは積極的な対応を控えてしまい、貴重な時間を浪費することとなった。 連合軍上陸前夜にベルヒテスガーデンのベルクホーフに滞在していたヒトラーは、エヴァ・ブラウンやヨーゼフ・ゲッベルスと映画のことなどで歓談して夜更かししており、就寝したのは午前3時であった。午前5時半ごろにヒトラーの副官カール=イェスコ・フォン・プットカマー准将に「フランスに上陸らしきものが行われた」という曖昧な報告がよせられたが、ヒトラーは不眠症に悩まされて、専属医から強力な睡眠薬を処方されてようやく寝入っており、プットカマーと専属医は協議のうえ「こんな時間に起こしたら、いつも決まってきちがいじみた決定を下すことになる。あの神経の発作がまた始まらないともかぎらないからね」として、ヒトラーを起こさないこととしている。 ヒトラーが起床してこの報告を受けた時間については諸説あり、ヒトラーの個人副官オットー・ギュンシェ親衛隊大尉によれば、午前8時にはベルクホーフの大広間に現れていたとされる。そこでヒトラーは幕僚らと面会する前には既に報告をうけていたようで、そこでヒトラーは一同を目の前にすると「紳士諸君、これは侵攻である。あそこを攻めるとは余がかねがね申しておっと通りではないか」と自分がかねてからノルマンディーへの連合軍上陸を予測していたと自信満々に語っている。しかし、アルベルト・シュペーアなどヒトラーの起床は遅かったという証言をする関係者もおり、真相は不明である。いずれにしてもヒトラーは自分の予想通りノルマンディに連合軍が上陸してきたので、海際で粉砕できると自信満々に長広舌を振るったという。 しかし、肝心の反撃戦力として内陸に拘置されている装甲師団の投入は許可されなかった。前線では、日の出の後になってこれを本格上陸と断定し、OKWにノルマンディ担当の第7軍をはじめ、B軍集団や西方総軍などからも、装甲師団投入について矢のような催促があったが、全て却下された。OKWの担当者は却下の理由として「敵上陸部隊の主力はまったく違う場所に襲来することになっている」などと言ったため、激怒した西方総軍の幕僚が「ひとまず当面の敵を粉砕すべき」「この上陸を許せば、敵は間違いなくここに戦力を集中してくる」と議論を試みたが、OKWの担当者は本当の却下理由を「(装甲師団投入の)決断をできるのは総統閣下おひとりである」とまだヒトラーが承認していないためと明かしている。 正午にベルクホーフの大広間にて作戦会議が開催された。ヒトラーは上機嫌でヴィルヘルム・カイテル元帥やヘルマン・ゲーリング元帥などを前にして「これ以上の好ニュースは、いままで聞いたことがない。奴らがイギリスにいる間は何もできなかったが、いまや、奴らを撃破できる」「敵は私の腹中に入った。進んで敗北への途を選んだのだ」と口舌を振るうと、15時になってようやく拘置していた3個装甲師団の戦場投入を許可した。このヒトラーの判断の遅れはドイツ軍にとって非常に痛かった。上陸当日の午前中は天候が悪く視界も不十分で、装甲師団が空襲を受けずに移動できた可能性が大きく、特に精鋭の第12SS装甲師団が幅広い戦場に展開が可能で連合軍の進撃を遅らせることができたはずであった。しかし、出撃命令があったときには天候が回復し、航空攻撃も激化しており、第12SS装甲師団は日没まで全く動くことができなかった。 ドイツ本土ヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが、連合軍上陸開始の連絡を受けたのは午前10時15分に至ってのことであった。ロンメルはそのとき「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と嘆いたという。ロンメルは慌ててヒトラーとの会見をキャンセルし、ラ・ロシュ=ギヨンにある司令部に向かった。前線ではロンメルの指揮下であった第21装甲師団(英語版)が反撃のために集結し増援を待っていたが、午後5時前にロンメルからシュパイデルに連絡が入った。そこで、シュパイデルが連合軍の主作戦地がノルマンディとはまだ確定できないこと、第21装甲師団は増援を待って反撃に転じるとの報告を行うと、ロンメルはそれを一喝し、直ちに第21装甲師団単独で反撃を行うよう命じた。ロンメルの命令に従って、連合軍の空襲で大損害を被っていた第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と協同で連合軍が上陸した海岸に向け突進したが、途中でイギリス軍第27機甲旅団と激突し、一方的にIV号戦車19輌を撃破されて撃退された。 司令部に到着したロンメルは、すぐに作戦室に入り状況の説明を受けたが、攻撃を命じた指揮下の第21装甲師団は不明との報告であった。また、第12SS装甲師団と装甲教導師団が動いていないことについても、ヒトラーの決断が遅れたことの説明を受けると、「狂気の沙汰だな」と呟き「もはや手遅れとなった頃合いに、ようやく到着するのだろう」と皮肉を交えて嘆いた。遅ればせながらも装甲師団の投入を決断したヒトラーはさらに強気になり、OKWからは浮世離れした命令が次々と西方総軍に下された。前線の第7軍はヒトラーのお望みの伝達に過ぎない「6月6日夕刻までに敵を撃滅せよ」「全部隊はカルヴァドス県の侵入点に向け方向転換をせねばならず、敵の海岸堡は今夕、より遅くない時間までに一掃されなければならない」という命令を受け取っているが、参謀長は「それは無理です」と返答している。ヒトラーとOKWは明らかに連合軍の空の脅威を軽視しており、ヒトラーは、第12SS装甲師団と装甲教導師団の投入で連合軍を海に叩き落せると目論んでいたが、実際には前述の通り第12SS装甲師団は日没まで動くこともできず、装甲教導師団に至ってはOKWの命令を守り、日中に戦力を集中させたため、連合軍の激しい空襲を浴びて、装甲車輌85輌、戦車5輌、トラック123台(うち燃料車80台)が撃破される大損害を被ってしまった。ドイツ軍は連合軍の攻撃機をヤーボ(Jabo)と呼んで恐れたが、ロンメルも幾度となくヤーボに襲われ、6月10日に西部方面戦車軍司令部に車で向かったロンメルは到着までに30回もヤーボに襲われ、そのたびに車を捨てて腹ばいになってヤーボをやり過ごしたので、司令部に到着したときには泥まみれであった。
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