ティブルシオ・カリアス・アンディーノの大統領時代とは? わかりやすく解説

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ティブルシオ・カリアス・アンディーノの大統領時代(1932年 - 1949年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:31 UTC 版)

ホンジュラスの歴史」の記事における「ティブルシオ・カリアス・アンディーノの大統領時代(1932年 - 1949年)」の解説

社会不安経済問題増大する中、1932年ホンジュラス大統領選挙英語版)は公正に平和裏行われたラテンアメリカでは多く政権不況によりクーデターなどで追われたため、ホンジュラスでそれが起こらなかったのは予想外だったユナイテッド・フルーツがクヤメル・フルーツを買収した後、自由党支持していたクヤメルの社長サム・ザムライ(英語版)が出国したため、自由党1932年選挙の頃には資金不足陥った。それでも、メヒア・コリンドレスは自身与党である自由党からの圧力はねつけ自由党大統領候補ホセ・アンゲル・スニガ・ウエテ(スペイン語版)を勝たせるために選挙結果操作することを拒否したその結果国民党候補カリアスが約2票差で勝利したカリアス1932年11月16日就任、ここにホンジュラス史上最も長い期間にわたって続いた長期政権誕生したカリアス就任直前自由党はメヒア・コリンドレスの反対にかかわらず反乱起こしたカリアス政府軍指揮執りエルサルバドルからの武器得て短期間反乱鎮圧したカリアス政権第1期ホンジュラス財政崩壊回避、軍の改善小規模な道路建設計画費やされカリアス長期間わたって権力を握る素地作った経済1930年代改善することはなかった。世界恐慌によるバナナ輸出大幅減のほか、1935年パナマ病萎れ引き起こす菌類)とシガトカ病(英語版)のアウトブレイクバナナ生産地域勃発したことで、翌年にはホンジュラスバナナ生産大半脅かされた。トルヒーヨ近くを含む多く地域バナナ産業放棄されホンジュラス人数千人失業した病気抑える方法1937年発見されたが、ホンジュラス市場占有率他国大きく奪われたため、多く地域ではバナナ生産回復することはなかった。 カリアス大統領就任以前にも軍を増強する努力をしていたが、大統領就任すると、その努力をさらに強めた。特に当時駆け出しだった空軍注目して1934年軍事航空学校設立米国空軍大佐1人司令官任命した時間経過するとともにカリアス慎重に権力掌握強めた。まずストライキなどの労働争議反対してバナナ会社支持得た続いて保守的な経済政策国内外金融業界支持得た世界恐慌が続く中、カリアスホンジュラス国債支払い続けイギリス債権者との協定頑なに守り続け、ほかの債権者をも満足させた。1935年には2つ小さな債務完済した政治統制徐々に導入された。ホンジュラス共産党英語版)は非合法化されたが、自由党活動許可され1935年小規模な蜂起首謀者も後に帰国のための航空輸送許された。しかし、カリアス1935年末に平和と内部秩序重要性強調して野党出版物政治活動弾圧するようになった一方国民党カリアス支持受けて、「カリアス大統領の座に留まり続けることがホンジュラスに平和と秩序をもたらず唯一の方法である」とのプロパガンダ打ち出した。しかし、憲法大統領連続した2期務めることを禁じたカリアス任期延長するために制憲議会招集新し憲法作成させ、新憲法に基づき初代大統領選出させた。この時期憲法変更する理由大統領任期延長するため以外にほとんど考えられなかった。それまでホンジュラス制憲議会憲法13作成しており(うち発効したのは10回)、最後憲法1924年発効していた。1936年ホンジュラス制憲議会選挙英語版)で選出され制憲議会1936年憲法作成、うち30か条は1924年憲法同じだった1936年憲法主な変更点は大統領と副大統領連続再選禁止撤廃任期4年から6年延長したことだった。ほかには死刑復活させ、議会権力減らし女性市民権投票権を含む)を取り上げたまた、現職大統領と副大統領1943年まで在任するとした。しかし、実質的にはすでに独裁者であったカリアスはさらに多く欲し1939年には国民党支配され議会カリアス任期6年間(1949年まで延長した自由党など政府敵対した者はカリアス失脚もくろんだ。しかし、1936年1937年行われた数多くクーデターの試み国民党政敵をさらに弱体化させただけに終わった1930年代末にはホンジュラス国内まともに活動できる政党国民党のみになった大勢反対派指導者投獄され一部は鎖につながれテグシガルパ街中働かされた。一方自由党党首スニガ・ウエテなどは海外逃亡したカリアス任期中グアテマラ大統領ホルヘ・ウビコ将軍エルサルバドル大統領マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス将軍ニカラグア大統領アナスタシオ・ソモサ・ガルシアなど中米の諸独裁者近しい関係を保持した中でもウビコとは特に親しく、ウビコはカリアス秘密警察再編成間違ってグアテマラ領に入ったホンジュラス反乱軍指導者射殺したニカラグアとの関係は国境紛争によりやや緊張していたが、1930年代と1940年代ではカリアスソモサ紛争制御することができた。 これらの親しい関係はグアテマラエルサルバドル民衆反乱によりウビコとエルナンデス・マルティネスが1944年失脚したことでその価値疑問視された。一時革命ホンジュラス飛び火すると思われた。一部軍人反対派市民による陰謀1943年末に露見し鎮圧され1944年5月にはテグシガルパホンジュラス大統領宮殿英語版)外で女性デモ行い政治犯釈放要求した政府強硬策で対処しようとしたが、緊張は収まらず、最終的にカリアス政治犯一部釈放せざるを得なかった。この行動反対派満足せず反政府デモ広まり続けた7月サン・ペドロ・スーラデモ参加者が軍に殺害される事件起き10月には亡命者エルサルバドルからホンジュラス侵攻してきたが政府転覆には失敗した軍部政府支持し続けカリアス大統領に留まった。 さらなる混乱避けたい米国カリアス任期終わった退任して自由選挙許可するよう圧力をかけた。すでに70代のカリアス最終的に同意して1948年10月選挙を行うことを公表自身出馬しない表明した。しかし、彼はあらゆる手を使って権力行使し続けた国民党カリアス選んだ大統領候補フアン・マヌエル・ガルベス(英語版)(1933年以来戦争相)を推した亡命反対派帰国許されたが、自由党長年活動低下していた上に分裂しており、それを乗り越えるためにひとまず1932年候補スニガ・ウエテを再び推した自由党はすぐに勝機がないとみて、政府選挙不正の疑いをかけて選挙ボイコットした。これによりガルベスはほぼ独り舞台当選1949年1月大統領就任したカリアス大統領期の評価難しい。彼の在任期はホンジュラス大いに必要としていた相対的な平和期であり、財政状況改善教育も少しではあったが改善向かい道路網は拡張され、軍は現代化された。一方発生期にあった民主制組織はしおれ、反対派労働者運動弾圧されカリアス支持者親族、そして主な外国利益もたらすために国益時として犠牲にされた。

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