ティブルシオ・カリアス・アンディーノの大統領時代(1932年 - 1949年)
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「ホンジュラスの歴史」の記事における「ティブルシオ・カリアス・アンディーノの大統領時代(1932年 - 1949年)」の解説
社会不安と経済問題が増大する中、1932年ホンジュラス大統領選挙(英語版)は公正に、平和裏に行われた。ラテンアメリカでは多くの政権が不況によりクーデターなどで追われたため、ホンジュラスでそれが起こらなかったのは予想外だった。ユナイテッド・フルーツがクヤメル・フルーツを買収した後、自由党を支持していたクヤメルの社長サム・ザムライ(英語版)が出国したため、自由党は1932年の選挙の頃には資金不足に陥った。それでも、メヒア・コリンドレスは自身の与党である自由党からの圧力をはねつけ、自由党の大統領候補ホセ・アンゲル・スニガ・ウエテ(スペイン語版)を勝たせるために選挙結果を操作することを拒否した。その結果、国民党の候補カリアスが約2万票差で勝利した。カリアスは1932年11月16日に就任、ここにホンジュラス史上最も長い期間にわたって続いた長期政権が誕生した。 カリアスの就任直前、自由党はメヒア・コリンドレスの反対にもかかわらず反乱を起こした。カリアスは政府軍の指揮を執り、エルサルバドルからの武器を得て、短期間で反乱を鎮圧した。カリアス政権の第1期はホンジュラスの財政崩壊の回避、軍の改善、小規模な道路建設計画に費やされ、カリアスが長期間にわたって権力を握る素地を作った。 経済が1930年代に改善することはなかった。世界恐慌によるバナナ輸出の大幅減のほか、1935年にパナマ病(萎れを引き起こす菌類)とシガトカ病(英語版)のアウトブレイクがバナナ生産地域で勃発したことで、翌年にはホンジュラスのバナナ生産の大半が脅かされた。トルヒーヨ近くを含む多くの地域のバナナ産業は放棄され、ホンジュラス人数千人が失業した。病気を抑える方法は1937年に発見されたが、ホンジュラスの市場占有率が他国に大きく奪われたため、多くの地域ではバナナ生産が回復することはなかった。 カリアスは大統領就任以前にも軍を増強する努力をしていたが、大統領に就任すると、その努力をさらに強めた。特に当時駆け出しだった空軍に注目して、1934年に軍事航空学校を設立、米国の空軍大佐の1人を司令官に任命した。 時間が経過するとともに、カリアスは慎重に権力掌握を強めた。まずストライキなどの労働争議に反対してバナナ会社の支持を得た。続いて保守的な経済政策で国内外の金融業界の支持を得た。世界恐慌が続く中、カリアスはホンジュラス国債の支払いを続け、イギリスの債権者との協定を頑なに守り続け、ほかの債権者をも満足させた。1935年には2つの小さな債務が完済した。 政治統制は徐々に導入された。ホンジュラス共産党(英語版)は非合法化されたが、自由党は活動を許可され、1935年の小規模な蜂起の首謀者も後に帰国のための航空輸送を許された。しかし、カリアスは1935年末に平和と内部秩序の重要性を強調して、野党の出版物と政治活動を弾圧するようになった。一方、国民党はカリアスの支持を受けて、「カリアスが大統領の座に留まり続けることがホンジュラスに平和と秩序をもたらず唯一の方法である」とのプロパガンダを打ち出した。しかし、憲法は大統領が連続した2期を務めることを禁じた。 カリアスは任期を延長するために制憲議会を招集、新しい憲法を作成させ、新憲法に基づき初代大統領を選出させた。この時期に憲法を変更する理由は大統領が任期を延長するため以外にほとんど考えられなかった。それまでのホンジュラスの制憲議会は憲法を13回作成しており(うち発効したのは10回)、最後の憲法は1924年に発効していた。1936年ホンジュラス制憲議会選挙(英語版)で選出された制憲議会は1936年憲法を作成、うち30か条は1924年憲法と同じだった。 1936年憲法の主な変更点は大統領と副大統領の連続再選禁止を撤廃、任期を4年から6年に延長したことだった。ほかには死刑を復活させ、議会の権力を減らし、女性の市民権(投票権を含む)を取り上げた。また、現職の大統領と副大統領が1943年まで在任するとした。しかし、実質的にはすでに独裁者であったカリアスはさらに多くを欲し、1939年には国民党に支配された議会がカリアスの任期を6年間(1949年まで)延長した。 自由党など政府に敵対した者はカリアスの失脚をもくろんだ。しかし、1936年と1937年に行われた数多くのクーデターの試みは国民党の政敵をさらに弱体化させただけに終わった。1930年代末にはホンジュラス国内でまともに活動できる政党が国民党のみになった。大勢の反対派指導者が投獄され、一部は鎖につながれてテグシガルパ街中で働かされた。一方、自由党党首スニガ・ウエテなどは海外逃亡した。 カリアスは任期中、グアテマラ大統領ホルヘ・ウビコ将軍、エルサルバドル大統領マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス将軍、ニカラグア大統領アナスタシオ・ソモサ・ガルシアなど中米の諸独裁者と近しい関係を保持した。中でもウビコとは特に親しく、ウビコはカリアスの秘密警察を再編成、間違ってグアテマラ領に入ったホンジュラスの反乱軍指導者を射殺した。ニカラグアとの関係は国境紛争によりやや緊張していたが、1930年代と1940年代ではカリアスとソモサが紛争を制御することができた。 これらの親しい関係はグアテマラとエルサルバドルの民衆反乱によりウビコとエルナンデス・マルティネスが1944年に失脚したことでその価値が疑問視された。一時は革命がホンジュラスに飛び火すると思われた。一部の軍人と反対派市民による陰謀は1943年末に露見して鎮圧され、1944年5月にはテグシガルパのホンジュラス大統領宮殿(英語版)外で女性がデモを行い、政治犯の釈放を要求した。 政府は強硬策で対処しようとしたが、緊張は収まらず、最終的にはカリアスが政治犯の一部を釈放せざるを得なかった。この行動に反対派は満足せず、反政府デモが広まり続けた。7月、サン・ペドロ・スーラでデモ参加者が軍に殺害される事件が起き、10月には亡命者がエルサルバドルからホンジュラスに侵攻してきたが政府転覆には失敗した。軍部は政府を支持し続け、カリアスは大統領に留まった。 さらなる混乱を避けたい米国はカリアスに任期が終わったら退任して自由選挙を許可するよう圧力をかけた。すでに70代のカリアスは最終的に同意して1948年10月に選挙を行うことを公表、自身は出馬しないと表明した。しかし、彼はあらゆる手を使って、権力を行使し続けた。国民党はカリアスが選んだ大統領候補フアン・マヌエル・ガルベス(英語版)(1933年以来の戦争相)を推した。亡命反対派は帰国を許されたが、自由党は長年活動低下していた上に分裂しており、それを乗り越えるためにひとまず1932年の候補スニガ・ウエテを再び推した。自由党はすぐに勝機がないとみて、政府に選挙不正の疑いをかけて選挙をボイコットした。これによりガルベスはほぼ独り舞台で当選、1949年1月に大統領に就任した。 カリアスの大統領期の評価は難しい。彼の在任期はホンジュラスが大いに必要としていた相対的な平和期であり、財政状況は改善、教育も少しではあったが改善に向かい、道路網は拡張され、軍は現代化された。一方、発生期にあった民主制の組織はしおれ、反対派と労働者運動は弾圧され、カリアスの支持者や親族、そして主な外国に利益をもたらすために国益が時として犠牲にされた。
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