アルビジョワ十字軍とは? わかりやすく解説

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アルビジョア十字軍

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/14 20:03 UTC 版)

アルビジョア十字軍(アルビジョアじゅうじぐん、フランス語Croisade des Albigeois, オック語Crosada dels Albigeses, 1209年 - 1229年)は、1209年南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍アルビジョワ十字軍とも。




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アルビジョワ十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 23:58 UTC 版)

シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)」の記事における「アルビジョワ十字軍」の解説

シモンフランス領地滞在していたが、再び十字架掲げキリスト教徒異端征伐に向かうことになった1206年頃、シモンの友でヴォー・ド・セルネー修道院長ギィが、ドミニコ・デ・グスマンやピエール・ド・カステルノーといった聖職者たちともに、オクシタニア異端カタリ派改宗させるべく説教するよう要請された。彼らの伝道活動はほんのわずかしか成果得られず、教皇特使カステルノートゥールーズ伯レーモン6世を破門した。ところがカステルノー1208年1月14日暗殺された。インノケンティウス3世カタリ派征伐遠征派遣決め聖地戦った者と同じく免罪符特別なはからいカタリ派征伐戦士与えることにした。ポブレー修道院修道士アルノー・アモーリーと院長ギィは、フランス王国内を歩いて回り男爵たちに『十字軍』に参加するよう説いた · 。 シモン1209年のアルビジョワ十字軍最初の遠征加わった。自らの領土対す脅威避けるため、1209年6月18日名誉ある振る舞い表明したレーモン6世も十字軍参加した十字軍騎士たちはリヨン近郊集会開き、アルノー・アモーリー指揮のもと南部向かったレーモン6世が十字軍一員となれば、もはや目的トゥールーズ伯ではなくカタリ派多く暮らす、ベジエおよびカルカソンヌ子爵レーモン=ロジェ・トランカヴェル(fr)の領地であったベジエおよびカルカソンヌ陥落の後、トランカヴェルは子爵位から追われ参加した男爵たちの中から後継者選ばれた。シモン選ばれ、トランカヴェル家から没収した領地継承した。彼はトゥールーズ伯領土征服し、これによりオクシタニア最大地主となった1209年11月10日幽閉されていたレーモン=ロジェ・トランカヴェルが急死したモンフォールの敵たちが、彼がトランカヴェルを暗殺したと噂を広めたオクシタニア反乱起きシモンいとこにあたるマルリー領主ブシャールが、トランカヴェル家家臣ピエール・ロジェ・ド・カバレに捕えられたうえ、城のいくつか包囲されオクシタニア側とその軍勢によって奪取された。シモンはいくつかの都市にしか頼れず、オクシタニアを完全に征服する準備を行わなければならなかった。この時、妻のアリックス・ド・モンモランシーは軍勢連れて夫に合流している。 シモンはその冷酷さ恐れられた。シモン残虐行為を、20世紀と21世紀人々野蛮だと思うだろうが、彼の行為13世紀においては当然のことだった。シモン大勢カタリ派信徒火刑にした。彼は、カタリ派異端非難する教会の、世俗権力者としてふるまった1210年、彼はミネルヴ改宗拒否したカタリ派住民140人を火刑にした(改宗した者の命は救った)。別の広く知られ事件として、ラストゥールの略奪前に、彼は近くブラムから捕虜連行させ、彼らの目玉くりぬき、鼻と耳、唇を切り落とした片目だけ残され捕虜1人先導して盲目人々連れ帰ったという。 シモン十字軍仲間たちは、彼らの封建領主であるフィリップ尊厳王を全面的に支持していた。尊厳王はジョン欠地王からノルマンディー攻略すると、十字軍主導権を握るべくインノケンティウス3世接近するが、これを断られた。尊厳王はジョン王に対して、そしてイングランド神聖ローマ帝国およびフランドル結んだ同盟対抗し、己の利益を守ることに執着した。 しかし、フィリップ尊厳王はトゥールーズ伯家の領地に対してフランス王の完全な権利主張した歴史家中には、王がモンフォール北部男爵たちを南フランス派遣したのは、少なくともフランス王権を再び主張するための遠征であった信じる者がいる。尊厳王は、彼の結婚をめぐる長い論争王国全体が聖務停止命じられる事態至ったため、教皇庁軟化させたかったのかもしれないシモンは、宗教的に正統派属する者とみなされドミニコ会異端弾圧深く関わっていた。ドミニコは、シモン本営置かれたファンジョーを中心に数年フランス南部で、特に十字軍活動低下する冬季活動したシモン側には、他にも主要な同盟者たち、ブルゴーニュ公ウード3世、ドンジー領主エルヴェ4世ブルゴーニュ家ゴーシェ3世・ド・シャティヨン(fr)がいた。多く歴史家たちは、貪欲なフランス貴族たちが南フランス土地征服したみなしている。彼らの多く第4回十字軍に関わっていた。そのうち1人ギィは、シモンモンフォール=ラモーリー領から30マイル離れていないところにあるシトー会派ヴォー・ド・セルネー修道院院長で、ラングドックへの十字軍同行し、のちにカルカソンヌ司教となった。アルビジョワ十字軍の間、ギィの甥にあたるピエール十字軍について記述した歴史家総じて、これが十字軍行動正当化するための宣伝考えている。ピエールは、十字軍残虐行為を、道徳的に堕落した異端者対する『神の御業』であると正当化した。彼は反対に南仏領主たちが犯した暴虐記している。 シモン精力的な冒険者で、彼と同じ信仰をかつて持ちながら捨てた人々攻撃するため軍を素早く動かした情勢自分有利だ思えばいつでも地方領主たちは寝返り繰り返すため、シモンの敵は常に多かった南仏は、高度に要塞化された都市トゥールーズカルカソンヌナルボンヌがあるのと同様に小さな要塞化した町のある、ウサギ巣穴のようにごみごみした場所だった。シモン誓約裏切ったに対して特に残虐であるのと同様に冷酷さ大胆さ示した。 ちょうど同じころ、ナバス・デ・トロサの戦いイスラム軍を破ったアラゴン王ペドロ2世は、シモン進軍憂慮しトゥールーズ伯フォワ伯、コマンジュ伯を自らの保護下に置いていた。1213年8月ペドロ2世ピレネー山脈越えてミュレで3人の伯たちと合流したシモン同盟軍攻撃し9月12日ミュレ戦いでペドロ2世破った。これはアルビジョワ派の完全な敗北であったが、シモン征服戦争としての遠征続けた1215年12月第4ラテラン公会議終わり教皇インノケンティウス3世は、トゥールーズ伯およびナルボンヌ公、カルカソンヌ子爵ベジエ子爵領地称号シモン与えた。彼はトゥールーズ伯領の多くの場所で2年間を戦争費やした1216年4月10日ムランにおいて彼はフランス王から伯として目通り許されている。ナルボンヌとなったことで、ナルボンヌ大司教アルノー・アモーリーと対立するまでに長い時間はかからなかった。 ボーケールの町は、トゥールーズ伯忠実で、レーモン7世に対して門戸を開いた1216年6月2日から8月24日まで、モンフォールはボーケールを包囲したレーモン7世はアルビジョワ十字軍の期間の間多く時間アラゴン過ごしたが、トゥールーズにいる協力者つながっていた。1216年9月レーモントゥールーズ向かったという噂が流れた。ボーケールの包囲解いてシモントゥールーズ向かい市民処罰意図して市街部分的に略奪したフォワ伯、カタルーニャおよびアラゴン連合軍組んだレーモン1217年10月トゥールーズ取り戻したシモン急いで町を包囲し、妻のアリックス・ド・モンモランシーをトゥールーズ司教フルクと共にフランス宮廷へ派遣し、王に支援訴えた9か月包囲し続けた後、シモン1218年6月25日立て籠もった市民側に殺害された。ある情報によると、『トゥールーズ婦女子ら(donas e tozas e mulhers)』が操るマンゴネルから放たれた石が、彼の頭に命中したという。彼の遺体当時習慣に従って整えられカルカソンヌのサン・ナゼ―ル教会埋葬された。1224年息子アモーリー6世によって遺体最終的にイル・ド・フランス送られモンフォール=ラモーリー近郊オートブリュイエール王立修道院(フォントヴロー会派)に再埋葬されている。

※この「アルビジョワ十字軍」の解説は、「シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)」の解説の一部です。
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