2002 FIFAワールドカップ 大会招致の経緯

2002 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 08:47 UTC 版)

大会招致の経緯

アジアでのワールドカップ計画

これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジアアフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会(JFA)が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった[2]。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。

一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(HD現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎討ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した[2]

苦渋の共同開催

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とUEFA会長のレナート・ヨハンソンを次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった[2]。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。

直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった[2]。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長で当時JFA副会長(後に会長)の岡野俊一郎だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという[2]。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の宮澤喜一が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼健JFA会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった[2]。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。

結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している[3]

その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った[4]。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年アメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し[5]、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった[6]。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。

なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表を4位に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明したが、投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補を取り止めた。

ワールドカップを巡る騒動は日韓友好ムードのマスコミとそれに対するネット世論で温度差があり、2011年以降の日韓関係の急速な冷え込みの遠因となったと指摘される[7]。ジャーナリストの安田浩一によると、取材した半分以上が日韓W杯をきっかけに韓国が嫌いになったと答えたという[8]

日本側の資金提供疑惑

2015年5月27日、アメリカ合衆国司法省国際サッカー連盟(FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴[9] して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。フランクフルター・アルゲマイネの記者であるジャン・フランソワ・タンダは、電通(当時の会長は成田豊)が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張[10]。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「Diario AS」は、長沼健が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した[11]。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない[12]


注釈

  1. ^ ソビエト連邦時代を含む。
  2. ^ 西ドイツ時代を含む。
  3. ^ 2003年(平成15年)4月1日政令指定都市に移行し、現在は埼玉県さいたま市緑区
  4. ^ a b 準ホームスタジアム
  5. ^ 2007年(平成19年)4月1日に政令指定都市に移行し、現在は新潟県新潟市中央区
  6. ^ 後のJVCケンウッド。日本代表戦では「Victor/JVC」表記の広告を使用し、それ以外の全ての試合では「JVC」表記の広告を使用した。この措置は1998年大会でも同様。本大会を最後にスポンサーから撤退し、それ以後業務用音響機器メーカーはスポンサーに付いていない。
  7. ^ 韓国でのゲームでは選手送迎バスにヒュンダイ製をオフィシャルとして使用していたが、日本ではヒュンダイ製バスはほとんど存在していなかったので、当時業務提携していた三菱自動車(現三菱ふそうトラック・バス)のバスを使用していた[要出典]

出典

  1. ^ cup/archive/JapanKorea2002/index .html 2002 FIFA World Cup Japan/Korea”. FIFA. 2016年8月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 『中田英寿・洪明甫 TOGETHER 2002ワールドカップBook』, 講談社, (2001年), ISBN 4-06-179351-9 
  3. ^ ワールドサッカーダイジェスト 2005年8月号
  4. ^ IMFと資本収支危機:インドネシア、韓国、ブラジル―IMF独立政策評価室による評価レポートの概要 (PDF, 225KB)
  5. ^ IMF危機と韓国の貿易 (PDF, 130KB)
  6. ^ a b 韓国、2億ドル融資を断る 読売新聞2001年2月6日付
  7. ^ フジは、なぜ「ネット炎上」の標的になるのか | GALAC | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
  8. ^ 嫌韓は2002年日韓W杯がきっかけだった!?”. 週刊朝日2013年10月11日号 (朝日新聞出版) (2013年10月5日). 2023年7月14日閲覧。
  9. ^ FIFA汚職で14人起訴、W杯開催国決定関連でも捜査=米・スイス WSJ 2015年5月27日
  10. ^ ブラッター会長が辞意表明――底なしの腐敗が露呈するFIFA事件は日本に波及するのか 現代ビジネス 2015年6月4日
  11. ^ 元日本協会会長が謝礼送金か=02年サッカーW杯日韓大会招致で-スペイン紙 時事通信 2015年6月18日[リンク切れ]
  12. ^ 日本、02年W杯招致で南米連盟に謝礼金送金か。150万ドル、証拠書類と共に西紙報じる フットボールチャンネル 2015年6月20日
  13. ^ 朝日新聞東京本社版、2000年6月7日付朝刊38面
  14. ^ 日韓共催W杯サッカー - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
  15. ^ 日本の全国紙における国名表記順序についての一分析『朝日新聞』による「韓日」表記(2001〜2005)を中心に(後編) (PDF, 464KB) - 文教大学
  16. ^ スポーツ記念日】もうあり得ない? 日韓共同開催のサッカーW杯開幕(2002年5月31日) - 産経ニュース、2015年5月24日
  17. ^ ブラジル大会へテコ入れ W杯組織委にFIFA理事会が全面参加-スポニチ2012年3月29日
  18. ^ a b 2002 FIFA World Cup Korea/Japan: Report and Statistics” (PDF). FIFA Technical Group. p. 109 (2002年). 2014年11月22日閲覧。
  19. ^ “ヤフー、W杯チケットのオークション出品を禁止”. 日経BP社. (2002年5月17日). http://www.nikkeibp.co.jp/archives/185/185768.html 2013年2月22日閲覧。 
  20. ^ “やっぱり出品されたW杯チケット 日本戦チケットにもユーザーは予想外の静観!?”. ITメディア. (2002年4月26日). https://www.itmedia.co.jp/internet/guide/0206/newsbr/ 2013年2月22日閲覧。 
  21. ^ a b c d 生島淳 (2004年), 『世紀の誤審 - オリンピックからW杯まで』, 光文社, ISBN 4334032591 
  22. ^ 田邊雅之 (2004年12月2日). “日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが公式認定?”. Number Web. 2023年1月9日閲覧。
  23. ^ 2002年5月27日 朝日新聞コラム 中小路徹
  24. ^ ポーランド 眠くて負けた スポニチ 2014年6月6日
  25. ^ 打倒米国へ韓国サポーター 朝まで生騒ぎ作戦 サンケイスポーツ
  26. ^ オーノ真似た安貞桓のセレモニーに喝采 中央日報 2002年6月10日
  27. ^ モレノ審判が現場復帰 エクアドル各紙報道
  28. ^ Ex-referee Byron Moreno pleads guilty (英語) ESPN NEW YORK 2011.1.15付記事
  29. ^ フットボール:The Greatest Managers #7 ジョバンニ・トラパットーニ
  30. ^ 『ロイター通信』電子版、2002年7月1日
  31. ^ Soccer: Highlights and lowlights SI 2009年12月18日
  32. ^ a b BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Lineker's Verdict - South Korea” (英語). BBC. 2013年2月22日閲覧。
  33. ^ BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Lineker's Verdict - Spain” (英語). BBC. 2013年2月22日閲覧。
  34. ^ BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Features - Real winners step forward - Most surprising moment” (英語). BBC (2002年7月1日). 2013年2月22日閲覧。
  35. ^ BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Features - World glimpses new order” (英語). BBC (2002年7月1日). 2013年2月22日閲覧。
  36. ^ PSY、イタリアで大ブーイング……“人種差別”にファン怒り RBB TODAY 2013年5月27日
  37. ^ “Blatter condemns officials”. BBC News. (2002年6月20日). http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/other_news/newsid_2055000/2055828.stm 2010年4月28日閲覧。 
  38. ^ アトー/ニック/キャズ”. imidas - イミダス. 時事用語事典. 2023年10月10日閲覧。
  39. ^ https://web.archive.org/web/20020609211446/http://www.ppvj.co.jp/special/spheriks.html





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