隼人 隼人の考古学

隼人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 03:13 UTC 版)

隼人の考古学

1960-90年代は弥生古墳時代考古資料を直接、隼人と結び付けて論じられていたが、1990年代以降は文献と考古資料の安易な結びつけや、飛鳥奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代弥生時代にまで波及させる考え方について疑問や批判が強まり[38][39][40]、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない[41][42][43][44]

墓制

九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は1960 - 80年代にかけて隆盛したが、現在は有力な学説と見なされていない(地下式横穴墓板石積石棺墓立石土壙墓の項も参照)[41][42][43][44]

かつては、古墳時代鹿児島県宮崎県境周辺の九州南部に地下式横穴墓などの「地下式墓制」が分布することから、これを隼人と関係づける説があった[7][45][46]

それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「立石土壙墓」を阿多隼人[47]、薩摩半島北部の「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」を薩摩隼人、そして日向・大隅に分布する「地下式横穴墓」を日向・大隅隼人の墓制にそれぞれ対応させるというものであった[注 7]

また、南山城地域、京都府京田辺市大住の男山丘陵から横穴墓が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた)[49]が、考古学上、横穴墓地下式横穴墓が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓がほとんど分布しないため、関連性に疑問がある[50]

なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[51]

人骨

南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている[52]

内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている[注 8]。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られ[注 9]、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。

ただし、これら人骨形質からの隼人像の復元については、弥生古墳時代考古資料を直接、隼人と結び付けて論じられていた時期(1960年代 - 90年代)の学説に基づき、弥生・古墳時代人骨を基に分析されており[52]、この時代の考古資料を用いての隼人像の復元はできないと断じられた2000年代以降の研究解釈[42][54][44]においては、その妥当性に注意が必要である。

種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、頭蓋変形がほどこされていたと考えられている[55]

宮崎県えびの市島内の島内地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、宮崎県立西都原考古博物館に保管されている93体について、赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた[56]。結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。どの段階で塗られたかは諸説あるが、これらの説を紹介した上で、当論文は結論として、第32号墓出土の1号人骨については、白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で塗られたと判断している(再塗とも考えられるが)。他人骨については、直接骨に塗ったとは考えがたいとも示している[注 10]


注釈

  1. ^ 風土が異なる事からとされる[21]。地理的・風土的孤立から九州南部は、弥生文化の普及が遅れ、現在でも血液指数・指紋指数が特殊な数値を示し、身長が低いなどの人類学的特徴があり、これゆえにインドネシア系種族と見る説も出た[8]
  2. ^ 日本書紀』に隼人が門番を務め、その時、悪霊から門を守る為、大きく吠える事が記されている。
  3. ^ 『日本書紀』天武朝(7世紀末)の記述として、隼人が朝廷で相撲を取った記述があるが、大和の相撲と異質であったとは記されていない。天武天皇11年(682年)、大隅隼人と阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝ったという記述や、持統天皇9年(695年)、飛鳥寺の西の木の下で、隼人が相撲を取り、民衆が観戦したという記録がある。
  4. ^ 『古事記』『日本書紀』に「代々朝廷で舞っていた」と記され、民俗だけでなく、中央政権にとって服従の示しとして認知されていた舞を、「有名であった」とする表現に問題はないと考えられる。
  5. ^ 小山修三国立民族学博物館)が数理的に推計した結果では、古墳時代土師器時代)の列島人口は約540万人とされる[32]奈良時代に至っても日本の総人口は600万に満たない(近代以前の日本の人口統計も参照)事からも、隼人の人口は総人口の100分の1前後と想定される。
  6. ^ 正倉院に保存されている現在の京田辺市大住周辺住民の課税記録『山城国隼人計帳』によると、大隅隼人が大部分を占め、一部阿多隼人が混在していた事が分かる。
  7. ^ 地下式横穴墓」は日向・大隅・薩摩にまたがるが、「地下式板石積石室墓(現在では板石積石棺墓)」はほとんど薩摩地方に限られている。この事から考古学者の小田富士雄は、前者が隼人に広く普及した墓制であり、後者は阿多隼人独特の墓制と推測した[48]
  8. ^ 西北九州弥生人は、この地方の縄文人が弥生文化を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行したと考えられている[53]
  9. ^ 森浩一も『古代史を解く『鍵』』(pp.190-191)で当論文から内陸隼人を縄文系に近く、沿岸隼人を渡来系ではと解している。また、『肥前国風土記』で五島列島に隼人に似た人々がいたとする記述も、内陸隼人と同様に骨格上から西北九州弥生人にルーツを求めるのであれば、一定の説明はつく。
  10. ^ 先述のように、地下式横穴墓出土遺物などの古墳時代資料を用いた隼人研究は今日支持されていないことにも留意すべきである。
  11. ^ 『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある[57]
  12. ^ 「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す[58]
  13. ^ コノハナサクヤヒメ伝説がバナナ型神話の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された[59][60][要ページ番号]

出典

  1. ^ a b c d e 原口耕一郎「隼人と日本書紀」名古屋市立大学 博士論文乙第1891号、2018年、NAID 500001430756 
  2. ^ 次田 1977, p. 205.
  3. ^ 武田 1969, p. 69.
  4. ^ 宝賀寿男「天孫族の列島内移遷」『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  5. ^ a b 日本史教育研究会 2001, p. 62.
  6. ^ 鐘江 2008, p. 95.
  7. ^ a b 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 163.(参考論文はこれより古いと見られる)
  8. ^ a b 武光 1999, p. 223の脚注.
  9. ^ a b c 襲国日本国語大辞典 デジタル大辞泉https://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  10. ^ a b 熊襲 くまそコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  11. ^ a b 門脇 & 森 1995, p. 186.
  12. ^ a b 笹山 1975, p. 不明.
  13. ^ 武光 1999, p. 223.
  14. ^ 中村 2001.
  15. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 196.
  16. ^ 中村 1993.
  17. ^ a b 永山 2009.
  18. ^ 宮原 2014, pp. 118–121(原論文発表、1986年)
  19. ^ 永山 2009, pp. 240.
  20. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 183–184(pp.184に波邪の国は隼人と解し、邪古は「ヤク」であり、屋久島を指し、多尼は「タネ」であり、種子島であると述べている。)
  21. ^ 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 158.
  22. ^ a b 加藤 1991, p. 98.
  23. ^ 加藤 1991, p. 99.
  24. ^ 山中ほか 1992, p. 45.
  25. ^ 茂山 1979, pp. 3–20.
  26. ^ 群馬県古墳時代研究会 1995, pp. 27–28.
  27. ^ 文化庁 1997.
  28. ^ 門脇 & 森 1995, p. 197.
  29. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 197–198.
  30. ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館 2004, p. 26.
  31. ^ 森本 2012, p. 110.
  32. ^ 森 1986, p. 131.
  33. ^ 山中ほか 1992, pp. 43-44.(p.45に南山城を隼人の居住地とも記す)
  34. ^ 加藤 1991, p. 97.
  35. ^ 鹿屋市 1967上巻ではこの説が採用されている。
  36. ^ 中村 2019, pp. 117–118.
  37. ^ 中村 2019, pp. 118.
  38. ^ 下山 1995.
  39. ^ 宮崎考古学会 1998.
  40. ^ 永山 1998, pp. 10–11.
  41. ^ a b c 原口 2008.
  42. ^ a b c 橋本 2009.
  43. ^ a b c 原口 2011.
  44. ^ a b c 白石 2012, p. 20.
  45. ^ 乙益 1970.
  46. ^ 上村 1984.
  47. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 184–185.
  48. ^ 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 163.
  49. ^ 門脇 & 森 1995, p. 187.
  50. ^ 橋本 2012, p. 142.
  51. ^ 橋本 & 藤井 2007, p. 12.
  52. ^ a b 松下 1990.
  53. ^ 上田正昭他『日本古代史の謎再考』学生社〈エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える〉、1983年、52頁。ISBN 4311410018 
  54. ^ 橋本 2012, pp. 139–146.
  55. ^ 文化庁 2008.
  56. ^ 谷畑 & 宮代 2005.
  57. ^ a b 次田 1977, p. 205.(2001年版)
  58. ^ 武田 1969, p. 69脚注.
  59. ^ 松村武雄『日本神話の研究』第二巻[要文献特定詳細情報]
  60. ^ 大林 1961, p. 不明.
  61. ^ 熊谷 2001, p. 288.
  62. ^ a b c 上田 1983, p. 33.
  63. ^ 武光 1999, p. 233.
  64. ^ 角林 1998, pp. 15–31.
  65. ^ 石上 1987.






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