隼人 神話の中の隼人

隼人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 03:13 UTC 版)

神話の中の隼人

日本神話では、海幸彦火照ホデリ命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという[注 11][注 12]

説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある[57][注 13]

654年(7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域のトハラ人と解釈するが、現在のタイ・ドヴァーラヴァティとの説有り)の民が漂着した記述がある[61]

民族系統

  • 古代史学者の上田正昭によれば、現代日本人の多くの血液型で海外人種と一番近いタイプは中国南部の「湖南型」で[62]、中国東北部の「満州型」や「朝鮮型」とはかなり違うとされる[62]。一方で、指紋型は朝鮮南部に近いとされる[62]。そして九州南部地域は現在でも血液指数、指紋指数が特殊な数値を示す[63]事から、隼人も多少なり、血液・指紋の型は大和とは異なると見られる。
  • 古事記』には、鵜飼は隼人の文化であるという記述がある。鵜飼は「照葉樹林文化」を特徴づける要素である。したがって「照葉樹林文化」をもった集団が隼人に多分に含まれていたことが示唆される。
  • 歴史学者の角林文雄によれば、隼人はオーストロネシア系民族とする見解がある[64]
  • 隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末 - 8世紀当時の律令政府が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた華夷思想に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、班田制などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民(化外の民)として「設定」し、朝貢させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある[65][41][43][17]

8世紀における南九州の有位者一覧

  • 曾君細麻呂(和銅3年(710年)4月29日、日向隼人、賜外従五位下)
  • 加志君和多利(天平元年(729年)7月22日、大隅隼人、姶羅郡大領、外従七位下勲七等→外従五位下勲七等)
  • 佐須岐君夜麻等久々売(天平元年(729年)7月22日、大隅隼人、姶羅郡大領、外従七位上→外従五位下、天平勝宝元年(749年)8月23日)、外従五位上→外正五位下)
  • 薩麻君福志麻呂(天平8年(736年)、薩摩郡大領、外従五位下)
  • 前君乎佐(天平8年(736年)、薩摩郡少領、外正七位下勲八等、(天平15年(743年)7月3日、外正六位上→外従五位下、天平勝宝元年(749年)8月22日、外従五位下→外従五位上、天平宝字8年(764年)1月18日、外従五位上→外正五位下)
  • 薩麻君宇志々(天平8年(736年)、薩摩郡主政、外少初位上あるいは下)
  • 肥君広龍(天平8年(736年)、薩摩郡主帳、外少初位上勲十二等)
  • 曾県主麻多(天平8年(736年)、薩摩郡主帳、外少初位下勲十等)
  • 肥君(天平8年(736年)、出水郡大領、外正六位下勲七等)
  • 五百木部(天平8年(736年)、出水郡少領、外従八位下勲七等)
  • 大伴部足床(天平8年(736年)、出水郡主政、外従八位下勲十等)
  • 大伴部福足(天平8年(736年)、出水郡主帳、無位)
  • 薩麻君鷹(天平8年(736年)、阿多郡少領、外従八位下勲十等)
  • 加士伎県主都麻理(天平8年(736年)、阿多郡主政、外少初位上勲十等)
  • 建部神嶋(天平8年(736年)、阿多郡主帳、無位)
  • 薩麻君須加(天平8年(736年)、阿多郡主帳、無位)
  • 曾乃君多理志佐(曾乃君多利志佐)(天平13年(741年)閏3月5日、外正六位上→外従五位下、天平15年(743年)7月3日、外従六位下→外正五位上、天平勝宝元年(749年)8月22日、外正五位上→従五位下)
  • 曾県主岐直志日羽志(天平勝宝元年(749年)8月22日、外従五位下→外従五位上)
  • 加禰保佐(天平勝宝元年(749年)8月22日、外従五位下→外従五位上)
  • 薩摩公鷹白(天平宝字8年(764年)1月18日、外正六位下→外従五位下、神護景雲3年(769年)11月26日、外従五位下→外従五位上)
  • 薩摩公宇志(天平宝字8年(764年)1月18日、外従五位下→外従五位上)
  • 志公嶋麻呂(神護景雲3年(769年)11月26日、外従五位下→外従五位上)
  • 薩摩公久奈都(神護景雲3年(769年)11月26日、外正六位上→外従五位下)
  • 曾公足麿(神護景雲3年(769年)11月26日、外正六位上→外従五位下)
  • 大住直倭(神護景雲3年(769年)11月26日、外正六位上→外従五位下、宝亀7年(776年)2月1日、外従五位下→外従五位上)
  • 薩摩公豊継(宝亀7年(776年)2月1日、外従五位下→外従五位上)
  • 曾乃君牛養(延暦12年(793年)2月10日、曾於郡大領、外従五位下→外従五位上)

注釈

  1. ^ 風土が異なる事からとされる[21]。地理的・風土的孤立から九州南部は、弥生文化の普及が遅れ、現在でも血液指数・指紋指数が特殊な数値を示し、身長が低いなどの人類学的特徴があり、これゆえにインドネシア系種族と見る説も出た[8]
  2. ^ 日本書紀』に隼人が門番を務め、その時、悪霊から門を守る為、大きく吠える事が記されている。
  3. ^ 『日本書紀』天武朝(7世紀末)の記述として、隼人が朝廷で相撲を取った記述があるが、大和の相撲と異質であったとは記されていない。天武天皇11年(682年)、大隅隼人と阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝ったという記述や、持統天皇9年(695年)、飛鳥寺の西の木の下で、隼人が相撲を取り、民衆が観戦したという記録がある。
  4. ^ 『古事記』『日本書紀』に「代々朝廷で舞っていた」と記され、民俗だけでなく、中央政権にとって服従の示しとして認知されていた舞を、「有名であった」とする表現に問題はないと考えられる。
  5. ^ 小山修三国立民族学博物館)が数理的に推計した結果では、古墳時代土師器時代)の列島人口は約540万人とされる[32]奈良時代に至っても日本の総人口は600万に満たない(近代以前の日本の人口統計も参照)事からも、隼人の人口は総人口の100分の1前後と想定される。
  6. ^ 正倉院に保存されている現在の京田辺市大住周辺住民の課税記録『山城国隼人計帳』によると、大隅隼人が大部分を占め、一部阿多隼人が混在していた事が分かる。
  7. ^ 地下式横穴墓」は日向・大隅・薩摩にまたがるが、「地下式板石積石室墓(現在では板石積石棺墓)」はほとんど薩摩地方に限られている。この事から考古学者の小田富士雄は、前者が隼人に広く普及した墓制であり、後者は阿多隼人独特の墓制と推測した[48]
  8. ^ 西北九州弥生人は、この地方の縄文人が弥生文化を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行したと考えられている[53]
  9. ^ 森浩一も『古代史を解く『鍵』』(pp.190-191)で当論文から内陸隼人を縄文系に近く、沿岸隼人を渡来系ではと解している。また、『肥前国風土記』で五島列島に隼人に似た人々がいたとする記述も、内陸隼人と同様に骨格上から西北九州弥生人にルーツを求めるのであれば、一定の説明はつく。
  10. ^ 先述のように、地下式横穴墓出土遺物などの古墳時代資料を用いた隼人研究は今日支持されていないことにも留意すべきである。
  11. ^ 『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある[57]
  12. ^ 「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す[58]
  13. ^ コノハナサクヤヒメ伝説がバナナ型神話の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された[59][60][要ページ番号]

出典

  1. ^ a b c d e 原口耕一郎「隼人と日本書紀」名古屋市立大学 博士論文乙第1891号、2018年、NAID 500001430756 
  2. ^ 次田 1977, p. 205.
  3. ^ 武田 1969, p. 69.
  4. ^ 宝賀寿男「天孫族の列島内移遷」『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  5. ^ a b 日本史教育研究会 2001, p. 62.
  6. ^ 鐘江 2008, p. 95.
  7. ^ a b 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 163.(参考論文はこれより古いと見られる)
  8. ^ a b 武光 1999, p. 223の脚注.
  9. ^ a b c 襲国日本国語大辞典 デジタル大辞泉https://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  10. ^ a b 熊襲 くまそコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  11. ^ a b 門脇 & 森 1995, p. 186.
  12. ^ a b 笹山 1975, p. 不明.
  13. ^ 武光 1999, p. 223.
  14. ^ 中村 2001.
  15. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 196.
  16. ^ 中村 1993.
  17. ^ a b 永山 2009.
  18. ^ 宮原 2014, pp. 118–121(原論文発表、1986年)
  19. ^ 永山 2009, pp. 240.
  20. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 183–184(pp.184に波邪の国は隼人と解し、邪古は「ヤク」であり、屋久島を指し、多尼は「タネ」であり、種子島であると述べている。)
  21. ^ 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 158.
  22. ^ a b 加藤 1991, p. 98.
  23. ^ 加藤 1991, p. 99.
  24. ^ 山中ほか 1992, p. 45.
  25. ^ 茂山 1979, pp. 3–20.
  26. ^ 群馬県古墳時代研究会 1995, pp. 27–28.
  27. ^ 文化庁 1997.
  28. ^ 門脇 & 森 1995, p. 197.
  29. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 197–198.
  30. ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館 2004, p. 26.
  31. ^ 森本 2012, p. 110.
  32. ^ 森 1986, p. 131.
  33. ^ 山中ほか 1992, pp. 43-44.(p.45に南山城を隼人の居住地とも記す)
  34. ^ 加藤 1991, p. 97.
  35. ^ 鹿屋市 1967上巻ではこの説が採用されている。
  36. ^ 中村 2019, pp. 117–118.
  37. ^ 中村 2019, pp. 118.
  38. ^ 下山 1995.
  39. ^ 宮崎考古学会 1998.
  40. ^ 永山 1998, pp. 10–11.
  41. ^ a b c 原口 2008.
  42. ^ a b c 橋本 2009.
  43. ^ a b c 原口 2011.
  44. ^ a b c 白石 2012, p. 20.
  45. ^ 乙益 1970.
  46. ^ 上村 1984.
  47. ^ 門脇 & 森 1995, pp. 184–185.
  48. ^ 近藤, 藤沢 & 小田 1973, p. 163.
  49. ^ 門脇 & 森 1995, p. 187.
  50. ^ 橋本 2012, p. 142.
  51. ^ 橋本 & 藤井 2007, p. 12.
  52. ^ a b 松下 1990.
  53. ^ 上田正昭他『日本古代史の謎再考』学生社〈エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える〉、1983年、52頁。ISBN 4311410018 
  54. ^ 橋本 2012, pp. 139–146.
  55. ^ 文化庁 2008.
  56. ^ 谷畑 & 宮代 2005.
  57. ^ a b 次田 1977, p. 205.(2001年版)
  58. ^ 武田 1969, p. 69脚注.
  59. ^ 松村武雄『日本神話の研究』第二巻[要文献特定詳細情報]
  60. ^ 大林 1961, p. 不明.
  61. ^ 熊谷 2001, p. 288.
  62. ^ a b c 上田 1983, p. 33.
  63. ^ 武光 1999, p. 233.
  64. ^ 角林 1998, pp. 15–31.
  65. ^ 石上 1987.






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