足利義満 皇位簒奪の意図はあったか

足利義満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 06:58 UTC 版)

皇位簒奪の意図はあったか

田中義成今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。

義満は早くから花押武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年(1408年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している[21][43]

今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[注釈 7]で終わり、英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方足利氏満年生まれ(ただし現在では年生まれとされる)、義満は年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。

なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。

批判

しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとした記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い。その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている[44][45]

石原比位呂は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点と共に、義満は「将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威回復のため、朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行すべき」という考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであり、そして最も強く反発したのが治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。そしてそのために義満は、自らの朝廷政策実現のために後円融天皇を退位させ、その権限を剥奪して、新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測。今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判する[46]

榎原雅治によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定によって経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる[47]

義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している(ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている)。

仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている[48]


  1. ^ 史書はこれを気宇壮大を表す事績として伝えるが、作家の海音寺潮五郎は「単なるわがまま」としている。
  2. ^ これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領畠山持国一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領細川勝元一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。
  3. ^ なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある[17]
  4. ^ この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで永徳至徳明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた崇徳天皇や、4回連続「元」のつく元号を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる寛永宝暦が提案されている。
  5. ^ この際に反対論を唱えたのは、一条経嗣らであったという[20]
  6. ^ 服部敏良は流行の風邪にかかり、それが悪化し急性肺炎のような症状で死去したであろうと推測している[30]
  7. ^ 現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる弘文天皇仲恭天皇の即位は一般には認められておらず(明治時代に同時に諡号を贈られた淳仁天皇は、即位に関しては不備はなく「47代 廃帝」として代数には含まれていた)、一方で神功皇后は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は後円融天皇にあたる。






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