赤沢正道
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赤沢 正道 (赤澤 正道) あかざわ まさみち | |
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生年月日 | 1907年7月26日 |
出生地 | 鳥取県米子市西倉吉町 |
没年月日 | 1982年1月20日(74歳没) |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 会社重役 |
称号 |
正三位 勲一等瑞宝章 鳥取県米子市名誉市民 法学士 |
配偶者 | 妻・赤沢貞子 |
親族 | 孫・赤沢亮正 |
内閣 | 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1967年11月25日 - 1968年11月30日 |
内閣 | 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1964年3月25日 - 1964年7月18日 |
選挙区 | 鳥取県全県区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1946年4月 - 1976年12月9日 |
山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い[4]。政治家赤沢亮正は孫。
来歴・人物
生い立ち
鳥取県米子市西倉吉町に生まれた[5]。父・康平は、徳島県出身の土木建築業[5]。旧徳島藩士である[6]。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた[5]。
また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった[7]。
学生時代
明道小学校に袴(ハカマ)をつけて通学した[5]。商家育ちの児童が多い中でひときわ目立った[7]。
米子中学校(現米子東高校)に進んだ赤沢は、英語が得意で、外交官を志し、校内での催しに英語で講演したほどだった[7]。剣道も群を抜いて強く、文武両道の英才だった[7]。
旧制松江高等学校を経て[8]1930年(昭和5年)東京帝国大学法学部政治学科卒業[2][7]。赤沢組を継ぐ[7]。
政治家として
1946年(昭和21年)戦後初の総選挙で衆議院議員に初当選[2]。しかし戦時中の経歴で公職追放となった。
解除後1953年(昭和28年)の総選挙で返り咲き、衆議院議員当選9回[2]、通算24年10ヶ月勤続した。三木派に属し三木武夫の盟友として知られた。第3次池田内閣、第2次佐藤内閣第1次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として入閣した[2]。
1982年(昭和57年)1月20日死去。戒名は大徳院殿晴雲仁覚正道大居士。
交遊関係
清交クラブ
『坂口平兵衛意誠 追懐録』6-7頁によると、
- 「当時のことで、もう一つ忘れてはならないのは、昭和十一年に誕生した清交クラブのことである。これは、赤沢正道氏が中心となって、織田収、坂口平兵衛、田村純一、坂口昇、大坪正章各氏ら、当時の若手有力者が集った、米子で初めての社交クラブである。マネージャーを小野篁一氏が務め、現在の朝日町赤沢医院の所にあった赤沢氏の自宅の敷地内にクラブのための建物を新築し、一階で撞球、二階で囲碁、マージャンなどを楽しみながら、熱っぽく天下、国家を論じ合った。いわば、米子ロータリークラブの前身とでもいえようか。」という。
固有名詞の分類
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