美甘村 美甘村の概要

美甘村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/27 08:25 UTC 版)

みかもそん
美甘村
廃止日 2005年3月31日
廃止理由 新設合併
真庭郡勝山町落合町湯原町久世町美甘村川上村八束村中和村上房郡北房町真庭市
現在の自治体 真庭市
廃止時点のデータ
日本
地方 中国地方山陽地方
中国・四国地方
都道府県 岡山県
真庭郡
市町村コード 33585-1
面積 67.19 km2
総人口 1,634
国勢調査、2004年10月1日)
隣接自治体 真庭郡勝山町、湯原町、新庄村阿哲郡大佐町
村の木 ヒノキ
村の花 ツツジスイセン
美甘村役場
所在地 717-0105
岡山県真庭郡美甘村大字美甘4134番地
旧・美甘村役場庁舎位置
(現・真庭市役所美甘振興局)

真庭市役所美甘振興局(旧・美甘村役場)
外部リンク 美甘村 (Internet Archive)
座標 北緯35度9分26秒 東経133度37分26秒 / 北緯35.15722度 東経133.62389度 / 35.15722; 133.62389
特記事項 2004年8月頃までの美甘村役場の住所:
岡山県真庭郡美甘村大字美甘4014
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沿革

1889年(明治22年)真島郡の美甘村・鉄山村・黒田村・田口村・延風村が合併して美甘村となり、それぞれの地区が大字になる。1900年(明治33年)真島郡と大庭郡が合併したため、真庭郡の所属となる。その後2005年(平成17年)平成の大合併の折、真庭市となる。

地理

岡山県の北部、真庭市の中部に位置し美甘・鉄山・黒田・田口・延風の5つの地区から成った[1]。総面積は約67㎢。おもに新庄川出雲街道国道181号線に沿って町が開けている。西には真庭郡新庄村が隣接している。総面積の約90%が林野で占められていた。

歴史

美甘の名がはじめて文献に見られるのは、平安時代初期に書かれた『和名抄』。その中に「美甘」「美加茂」と記されている[2]。平安時代の終わりには荘園美甘庄が成立。美甘、黒田、田口が属していた。ちなみに鉄山は建部庄に属していた。藤原兼実の日記『玉葉』に、その名が書かれている[2]

1221年(承久3年)鎌倉幕府に反抗した後鳥羽上皇隠岐に配流された際、そこへ向かう道中に美甘も入っていたと言われる[2]戦国時代には、美甘が山陰へ通じる山陽側の要衝地だったため、勝山高田城の先鋒的な役割を担っていた。ただそのため、緒戦において常に戦火の被害を被っていた[2]

1646年(正保2年)美作国大名の森忠政により、美甘地域の地秤りが行われた[2]。また1651年(慶安4年)美甘川の南にあった町屋敷を街道筋(後の出雲街道)のある北側に移すなど、森藩は1652年(承応元年)から3年かけて宿場をつくりあげたと言われている[3]。その後、1666年(寛文6年)頃から街道筋が出雲街道と呼ばれはじめ、道の整備が進み、商人も往来するなど、美甘が宿場町として栄えた[2]1792年(寛政4年)表向きの宿屋がなかった美甘に宿屋がしたいという者が集まり、宿屋株を結成。23軒の宿屋ができた。ちなみに当時、通りには40軒ほどあり、そのうち23軒が宿屋になったと言われている[2]

1889年(明治22年)真島郡の美甘村・鉄山村・黒田村・田口村・延風村が合併して美甘村となる。

歴代村長

  • 横山和市(1代目)
  • 横山権二(2・3代目)
  • 山崎治郎平(4代目)
  • 影守晋治郎(5代目)
  • 瀬恒勇蔵(6・7・8・9・15代目)
  • 横山芳雄(10・11・12・19代目)
  • 横山類次郎(13代目)
  • 金次軍太郎(14代目)
  • 小林利行(16・17・18代目)
  • 廣岡美寅(20・21代目)
  • 山口富泰(22・23・24・25代目)
  • 中川勇(26・27・28代目)
  • 植田健治(29代目)
  • 小野田守利(30・31代目)
  • 横野孝(32代目)
  • 池田文治(33・34代目)[4]

おもな災害・火事

1675年(延宝2年)、延宝の大火に見舞われ、美甘の町並みが一軒を残してすべて廃塵に帰した[2]。また、1731年(享保15年)44戸が焼失する火事が起こった。火元の塚谷屋は造り酒屋などの盛んな商業活動により、美甘の町を賑やかな宿場に代えた立役者であった[2]1782年-1783年(天明2-3年)は全国的な飢饉。1785年(天明5年)には美甘で大洪水が起こり、1786年-1787年(天明6-7年)にはまた大飢饉に見舞われている[2]

その影響もあり、黒田地区は存続の危機を迎え、庄屋などが救済に奔走している。1802年(享和2年)たたら師の資本が入り、黒田地区を中心にたたらが盛んになった。黒田地区の百姓は鉄穴流しによる砂鉄をたたらにしたり炭焼きをしたり経済が立ち直った。ちなみに田口地区は他の地域と異なり、水源が弱いために、夏の灌漑に苦労したと言われる。そのためこの地区にだけ雨宮様という雨乞いの神様が祀られている[2]

1804年(享和4年)にも享和の火災と呼ばれる美甘が全焼する火事に見舞われている。1893年(明治26年)10月、暴風雨と洪水が起こり、死者が出ている。1909年(明治42年)には美甘尋常小学校の本校舎が全焼している[2]

産業

江戸時代中期、宿場町を中心に美甘村の株はおもに木地問屋株、鉄問屋株、造酒株、馬株などがあった[2]栽培も盛んであった。

江戸時代後期になると、他の地域から資本が流れるなど美甘はたたら製鉄が最も盛んな時代を迎える。鉄穴の跡が多く残っており、中でも黒畑奥・大俺・平島奥・羽仁の竜神山を中心とする広大な鉄穴流しの跡が当時を物語っている。また山腹に水路を巡らし、鉄穴流し場まで水を引いた鉄穴井手が各所に見受けられる[2]


  1. ^ 『村誌美甘下巻』美甘村誌編纂委員会編。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『村誌美甘上巻』美甘村誌編纂委員会編。 
  3. ^ a b c d e f g 『出雲街道みかもの里』美甘村。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『美甘村115周年記念誌』みかも歳時記。 


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