石見国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 07:37 UTC 版)
石見国 | |
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■-石見国 ■-山陰道 | |
別称 | 石州(せきしゅう) |
所属 | 山陰道 |
相当領域 | 島根県西部(石見地方) |
諸元 | |
国力 | 中国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 6郡37郷 |
国内主要施設 | |
石見国府 | 島根県浜田市 |
石見国分寺 | 島根県浜田市(石見国分寺跡) |
石見国分尼寺 | 島根県浜田市(石見国分尼寺跡) |
一宮 | 物部神社(島根県大田市) |
概要
東西に長いため、大田市を中心とする東部を「石東」、浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び、三分される[1]。
また、中国山地を唯一越える江の川が流れており、安芸国との結びつきも強い。
領域
明治維新の直前の領域は、浜田市、益田市、江津市、邑智郡、鹿足郡および大田市の大部分(山口町山口・山口町佐津目を除く)、出雲市の一部(多伎町神原)、飯石郡の一部(飯南町塩谷・井戸谷・畑田)、広島県山県郡の一部(北広島町西八幡原の一部)にあたる。
該当区域の面積は3,585.41k㎡、人口は21万1940人(2010年国勢調査)。(1)
沿革
古墳時代(崇神天皇朝)の大和王権による出雲国の攻略と同時に石見国造が設置され、その支配領域は7世紀の律令制石見国に引き継がれた。
『延喜式』に石見国の駅として、
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り[注釈 1](451村・172,209石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。幕府領は大森代官所が管轄。
- 慶応2年2月15日(1866年3月31日) - 長州戦争により浜田藩が移転して美作鶴田藩となり、領地が周防山口藩預地となる。
- 明治2年8月2日(1869年9月7日) - 幕府領・山口藩預地が大森県の管轄となる。
- 明治3年1月9日(1870年2月9日) - 大森県の管轄地域が浜田県の管轄となる。
- 明治4年6月25日(1871年8月11日) - 津和野藩が廃藩。全域が浜田県の管轄となる。
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
- 昭和28年(1953年)12月1日 - 那賀郡波佐村の一部(波佐字滝平の一部)が広島県山県郡八幡村(現・北広島町)に編入。
国内の施設
国府
『和名抄』によれば、国府は那賀郡にあった。現在の浜田市の伊甘(いかみ)脇遺跡付近や上府(かみこう)遺跡・古市遺跡辺りなど諸説あるが、遺構が発見されていない。また、浜田市下府町(しもこう)へ移転したとする説もある。
国分寺・国分尼寺
石見国の国分寺・国分尼寺は浜田市国分町にある。現在の曹洞宗の国分寺が国分尼寺跡と推定されている。その近くの金蔵寺(こんぞうじ)境内が国分寺と考えられている。部分的な発掘であるが、当時の山門・金堂・講堂・塔跡などの礎石と推定されるものが検出されている。
神社
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