江之島電氣鐵道1形電車 遍歴

江之島電氣鐵道1形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 18:10 UTC 版)

遍歴

運行

1次車として搬入された電動車の1-4号車は1902年8月中旬より試運転開始しており、8月30日に使用許可を逓信大臣より受領[22]して9月1日より営業運行を開始している。同日は午前6時に営業を開始しており[33]、藤沢-片瀬3.42kmに昇降場10か所が設けられて交換は鵠沼(右側通行)で行われており、運賃は藤沢-片瀬3等10銭・1等15銭であった[2]。なお、開業当日は各列車とも満員であり、鵠沼に到着した藤沢行の運転士が乗客に急かされるままに列車を発車させてしまったことが原因で17時20分に藤沢発の電車と片瀬発藤沢行の電車が藤ヶ谷付近で正面衝突する事故が発生している[33]。開業の1902年は年末までに1日平均約24本の運行で33255人を輸送、旅客収入3,587.77円、貨物収入(電車にて輸送)、66.58円[34]であった。

貨物輸送は開業から1933年[注釈 25][35][36]まで行われており、開業当初は電車に貨物を積載して運送し[2]、その後1904年に天野工場製の3t積の無蓋貨車1・2号車が導入され[4]て電車が牽引する形で運行され、ピークの1923年には年間1934tの輸送量となっている[10]

1903年の行合までの路線延長に合わせた5-10号車の導入に伴い、電動車が付随車を牽引する2両編成の運行が開始されている[5]。2両編成の列車は終端駅では機回し線により電動車を編成の先端に付替えており、また、連結時には車両両端に設置されていた救助網は取外されている。

開業時にはビューゲルを装備していた集電装置は架線と接する部分の磨耗が多かったため、横浜電気時代にトロリーポールに変更されており[5]、『江ノ電の100年』では「資料が残されていないため断定はできないが、1912年の川口村会における横浜電気の電柱建設に対する審議記録、同年5月31日発行の横浜貿易新報の記事、さらにシーメンスについて記した書籍の記載事項から推測すると、1912年ごろ変更されたものと思われる。」とされている[37]

横浜電気による運営となった後も引続き輸送力の増強などの設備投資が継続されている。1912年の15-18号車の増備に伴い保有車両は電車(電動車および付随車)18両と貨車2両となってそれまでの片瀬車庫が手狭となったため、6月12日認可で極楽寺車庫が新設されて点検・修繕などの作業が移管されている[24]。また、1913年9月11日認可で運行速度の向上が実施されており、専用軌道は12.8km/h以内、新設軌道(専用軌道)うち、踏切その他危険の恐れのないところは24.1km/h以内[25][24]となっている。このほか、藤沢駅の改良、長谷駅への引込線の新設、小町駅付近の併用軌道への敷石の敷設などが実施されている。

1913年4月6日には片瀬-長谷間で16号車により、伏見宮博恭王ほか3皇族が乗車したお召列車が運行されている[24]。なお、開業当初は7号車、その後14号車が貴賓車となっていたともされており、現在でも江ノ島駅待合室に貴賓室の扉2枚が保管・展示されている。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、1号車が焼失したほか、片瀬発電所が被災して廃止となったほか、津波による土砂流出による軌道の埋没[注釈 26]などにより、被害額は当時の年間運輸収入の約26%にあたる66,667円に及んだが、同年9月25日にはほぼ全線で運行を再開している[9]

なお、100形の運行開始にあたり、車両の大型化で支障する駅施設などの改良工事と、これに伴う既存車両のステップの改造が実施されている[1]

1931年4月15日-18日に七里ヶ浜海岸[注釈 27]で開催された「開通三十周年祝賀会」に際して、2号車および3号車による花電車が運行されている[38]。両車には極楽寺工場において車体に造花モールによる装飾と赤色および青色の約700個による電球電飾が実施されている[39]。また、祝賀会の最後に”焚車祭”が行われている[38]。これは同年に廃車となった4号車の車体を装飾して鎌倉・腰越・川口3町村の青年団員の協力により祝賀会場前の海上に設置し、平沼覚治朗常務が点火して旧時代との決別と将来の発展を祈念したものである[40]。なお、この祝賀会では併せて1910年1月23日に発生した逗子開成中学校ボート転覆事故慰霊碑も建立されている[41]

1931年には既存の2軸単車5両を改造した納涼電車が用意されて8月21日認可で運行を開始[注釈 28]している。この列車では東京で募集した"ミス・エノシマ"が添乗したり[29]、"サービスガール"と呼ばれる添乗員による車内販売が行われる[16]などの施策も実施されて人気を博し、営業成績もよかったため、1936年にはボギー車の111-112号車が増備されたが太平洋戦争の勃発により運行中止されている[16]。また、納涼電車の運転や後述の廃車体を利用した七里ヶ浜キャンプ村の開設に合わせて、1931年より夏季輸送客を見込んで西方-浜須賀間に西浜(7月10日-8月31日営業)、大境-追揚間に七里ヶ浜納涼園前(7月25日-9月30日営業)の臨時停留場を開設しており、七里ヶ浜納涼園前はキャンプ村開設に伴い1932年に七里ヶ浜キャンプ村前に改称した後、翌1933年1月より常設の七里ヶ浜駅(現七里ヶ浜とは別位置)となっている[42]

廃車・譲渡

廃車

  • 1923年:1I号車が関東大震災により焼失[9]
  • 1938年:15II号車計2両廃車[5]
  • 1939年6月:6、7、3II(元8I)号車の計3両廃車[43](これにより残存するのは電動車2両と電動貨車1両となる[43])。
  • 1940年:17号車廃車[44]
  • 1949年5月4日:1号電動貨車廃車[18]、解体(代替として1947年に2号電動貨車を導入している)。

譲渡

納涼電車に改造された車両以外では、17-22号車が他社へ譲渡されており[5]、納涼電車も普通車に改造されるなどして4両が譲渡されている。

  • 1940年:東武鉄道が江ノ島電気鉄道より17号車を含む[44]4両を譲受[45]しており、江ノ島電気鉄道元17-20号車が東武鉄道33-36号車となっている。
  • 1941年11月:武蔵野鉄道(現西武鉄道)が江ノ島電気鉄道から元1II-3IIを譲受[32]モハ15形(後にモハ11形)モハ15-17号車としている。東横車輛工事(現東急テクノシステム)により納涼車体から通常の車体に改造し、1941年12月に竣工[46]しているが、台車は引続きマイネッケ製のものを装備している[32]。この改造は乗降扉および二段式の窓を設置するもので、あわせて全長の短縮、全幅および全高の拡大と床面高さの変更がなされている[32][注釈 29]など、大掛かりなものとなっている。
  • 1942年4月:仙台市事業部電車課(後の仙台市交通局)が江ノ島電気鉄道から元11、21-22号車を譲受、3両分の車体・台車を組み合わせてモハ60型63、64号車としている。なお、モハ63号車は1948年6月に秋保電気軌道(後の秋保電気鉄道)に譲渡されてマハ12号車(後にモハ413号車)となっているが、この車両は江ノ島電気鉄道22号車の車体に11号車が装備していたマイネッケ製の台車を組合わせたものとされている。

その他

  • 1931年に4号車の車体が前述のとおり「開通30周年記念祝賀会」の”焚車祭”に使用されている[47]
  • ボギー車の導入に伴い廃車となったうちの8両分の車体が三十周年記念祝賀会会場跡地の七里ヶ浜キャンプ村の宿泊施設に転用されている[48]。また、納涼電車に改造された2I-3I、8、11-12号車が旧来使用していた木造車体も同様に七里ヶ浜キャンプ村で宿泊施設に転用されている。転用に当たっては車体は赤・青・黄色の塗装とされ、キャンプ場内には電灯・水道設備・浴場も設置されており、1室8人で宿泊料2円の料金とされている[48]。この宿泊施設の宣伝活動は海外にまで展開されて1944年頃まで営業し、戦後は罹災者住宅として活用されたのち1950年代後半までに撤去されている[48]

注釈

  1. ^ それぞれ後の京都市電伏見線1970年4月1日廃止)、名古屋市電栄町線1971年2月1日までに廃止)、京浜急行電鉄大師線箱根登山鉄道小田原市内線1956年6月1日までに廃止)、大分交通別大線1972年4月5日廃止)、なお、これらの鉄道が開業する前の1892・93年頃に足尾銅山において鉱石運搬と従業員通勤のために自家用の電気鉄道が建設されている
  2. ^ その後1936年11月4日に600Vに昇圧し、現在に至る
  3. ^ 後に直流150kWのものおよび交流150kWのもの各1基を増設し、この交流発電機を使用して1908年2月5日より近隣への給電を開始しているが、1923年の関東大震災により被災し廃止、江ノ島電気鉄道には1920年認可で建設された出力200kWの極楽寺変電所と、後に発電所跡地に建設された出力150kWの片瀬変電所が引き継がれている
  4. ^ Siemens & Halske AG, Berlin
  5. ^ Babcock, Wilcox & Company, Providence
  6. ^ その後1903年に開業した宮川電気(後の三重交通神都線)の車両もジーメンス・ウント・ハルスケ製の電機品を使用
  7. ^ その後1927年には3675千人まで増加している
  8. ^ それまでは藤沢駅 - 片瀬駅および長谷駅 - 鎌倉駅間は12分間隔、片瀬駅 - 長谷駅間は24分間隔の運転であった
  9. ^ 譲渡契約の締結は5月1日、軌道譲渡許可申請が6月5日、同許可が6月9日、江ノ島電気鉄道による営業開始が7月1日
  10. ^ 発起後の1922年12月22日に茅ヶ崎 - 辻堂海岸 - 鵠沼および辻堂 - 辻堂海岸間の鉄道の免許を取得しながら関東大震災の影響で起業に至っていなかった東海土地電気が名称を変えて1926年7月10日に江ノ島電気鉄道として設立され、免許取得路線の開業を目論んでいる(1930年失効)ほか、1926年12月10日には片瀬 - 鵠沼間の鉄道の免許を(1930年5月に日本自動車道へ譲渡)、1928年7月3日には片瀬 - 江ノ島島内の懸垂式鉄道の免許を受けている(同年11月2日に江ノ島懸垂電気鉄道へ譲渡)
  11. ^ このほか、実現はしていないが藤沢 - 片瀬および長谷 - 鎌倉間の複線化が計画され、1928年7月7日に認可申請を行っている
  12. ^ 全長約15mの付随車(後に制御車に改造)で、 1929年春の花見シーズンから湊川 - 有馬温泉間を1日2往復しており、1944年に通常車体のクハ141形に改造
  13. ^ 1936年に阪神パークと中津浜、六甲山植物園の3ヶ所を会場とした「輝く日本博覧会」が開催された際、博覧会のPRと納涼観光を目的として2両が導入され、後に2両が増備された全長約14mの電車
  14. ^ 1927年に運行認可、なお、戦後の1950年頃にもモ45形を改造した納涼電車が運行されている
  15. ^ 欧州など日本以外でも事例があるものであり、古い例では1899年夏よりスイスのシュタンスシュタート-エンゲルベルク鉄道(Stansstad-Engelberg-Bahn(StEB)、現ツェントラル鉄道(Zentralbahn(zb)))が取外し式の窓を備えた納涼電車(Sommerwagen)のBe2/4 6-7号車とB4 8-9号車を運行している
  16. ^ 1896年11月10日に天野正雄により現在の東京都墨田区に設立、1898年には元北海道炭砿鉄道や日本鉄道汽車課長兼大宮工場長を歴任した藤田重道に譲渡され、その後1907年に藤田が雨宮敬次郎と共に雨宮鉄工所(後の雨宮製作所)を設立したタイミングで天野七三郎に譲渡、1920年に日本車輛(現日本車輌製造)が吸収合併して東京支店工場となり、1934年に現在の埼玉県川口市移転し蕨工場となる
  17. ^ 『江ノ電百年物語』 p.75-76では2号車と8号車の台車はマイネッケ製としている
  18. ^ 『江ノ電の80年表』p.17では1903年4月24日-5月13日に天野工場より3等車台3台分を受領としている
  19. ^ 『江ノ電の80年表』 p.16では1-3、8号車を電動車、4-7号車を付随車として8月30日に使用許可を受けたとしている
  20. ^ 『江ノ電の100年』 p.373では1903年12月24日に電車内機械器具装置変更ならびに付随車新設認可申請としている
  21. ^ 『江ノ電の80年表』 p.16で1-8号車は全長6.97m(23)、全幅1.81m(6尺)、p.18で9-10号車は全長7.57m(25尺)、全幅1.81m(6尺)としている
  22. ^ General Electric Company
  23. ^ 『江ノ電の80年表』 p.16では対象を4-7号車としている
  24. ^ 11-12号車を動力車、13-14号車を付随車とする文献もある
  25. ^ 1933年11月6日付で軌道貨物輸送休止許可申請、翌1934年1月27日付で休止許可、1937年で廃止許可を受けている
  26. ^ 関東大震災による津波の高さは神奈川県三浦で6m、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸では5-7mで、由比ヶ浜では局地的に9mに達して300人余が行方不明となり、当時の由比ヶ浜駅にも津波が到達している
  27. ^ 現在の鎌倉プリンスホテルのバンケットホールの前付近
  28. ^ 『江ノ電の80年表』 p.32では1931年7月運行開始とされている
  29. ^ 全長は310mm短縮(改造前後とも連結器はなし)、全幅510mm拡大、全高151mm増大、自重0.3t増大

出典

  1. ^ a b c 『江ノ電の100年』 p.103
  2. ^ a b c d 『江ノ電の100年』 p.61
  3. ^ a b c d e f g 『江ノ電の100年』 p.58-59
  4. ^ a b c d e f g h 『江ノ電の100年』 p.62
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「当方見聞録 第9章 車両に見る江ノ電の一世紀」 本形式についても解説されている
  6. ^ 『江ノ電の100年』 p.70
  7. ^ 『江ノ電の100年』 p.69
  8. ^ 『江ノ電の100年』 p.74
  9. ^ a b c d 『江ノ電の100年』 p.80-81
  10. ^ a b 『江ノ電の100年』 p.80
  11. ^ 『江ノ電の100年』 p.77
  12. ^ a b 『江ノ電の100年』 p.81
  13. ^ 『江ノ電の100年』 p.82
  14. ^ 『江ノ電の100年』 p.100-101
  15. ^ 『江ノ電の80年表』 p.28
  16. ^ a b c d e f g 『江ノ電の100年』 p.112
  17. ^ a b c 『江ノ電の80年表』 p.33
  18. ^ a b c 『江ノ電の80年表』 p.41
  19. ^ a b 『江ノ電の100年』 p.372
  20. ^ a b 『江ノ電百年物語』 p.76
  21. ^ 『江ノ電の80年表』 p.17
  22. ^ a b 『江ノ電の100年』 p.59
  23. ^ 『江ノ電の80年表』 p.18
  24. ^ a b c d e f g 『江ノ電の100年』 p.75
  25. ^ a b 『江ノ電の80年表』 p.23
  26. ^ 『江ノ電の100年』 p.374
  27. ^ a b 『江ノ電の80年表』 p.24
  28. ^ 『江ノ電の100年』 p.378
  29. ^ a b 『江ノ電百年物語』 p.81
  30. ^ a b 『江ノ電の80年表』 p.34
  31. ^ 『江ノ電写真集』 p.32
  32. ^ a b c d 鉄道省 『鉄道免許・西武鉄道・昭和16年』「江ノ島電鉄所属車輌譲受設計変更及び連結器省略の件」
  33. ^ a b 『江ノ電の100年』 p.60
  34. ^ 『江ノ電の100年』 p.60-61
  35. ^ 『江ノ電の80年表』 p.32
  36. ^ 『江ノ電の80年表』 p.36
  37. ^ 『江ノ電の100年』 p.76
  38. ^ a b 『江ノ電の80年表』 p.30
  39. ^ 『江ノ電の100年』 p.110
  40. ^ 『江ノ電の100年』 p.111
  41. ^ 『江ノ電百年物語』 p.79
  42. ^ 『江ノ電の100年』 p.114
  43. ^ a b 『江ノ電の80年表』 p.37
  44. ^ a b 『江ノ電百年物語』 p.75
  45. ^ 小林茂 『伊香保電車盛衰』 p.53
  46. ^ 運輸通信省『鉄道免許・西武鉄道(武蔵野鉄道)・昭和17~19年』「客車竣功の件」
  47. ^ 『江ノ電の100年』 p.111-112
  48. ^ a b c 『江ノ電の100年』 p.113


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