歴史教育 歴史教育の概要

歴史教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 17:28 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

概要

具体的には、生徒の発達段階に応じて、教育的に系統化された歴史科学の視点・概念・知識などを学習していく過程の中で歴史的なものの見方・考え方を習得していくための教育である。

歴史教育は過去における人類・民族・国民の過去及び文化遺産に関する考え方の育成にあるとするが、そこには歴史学の立場からの関与と教育学の立場からの関与が考えられる。

1970年代歴史教育学という概念を考案した平田嘉三は歴史教育の目的を5つに分類している。

理解・教養・教訓的歴史教育 歴史的事実・事象の持つ個性を尊重してこれを理解していくことで教養の充実を図るとともに、そこにある教訓的意味を重視する教育。
戦前の歴史教育から継続される類型で歴史教育の「記憶暗記」型を生み出したとされる。
価値・訓育・科学的歴史教育 マルクス主義的な唯物史観の観点に立って階級的な歴史認識と実践行動力を育てようとする教育。これに対しても視点の偏りに対する批判がある。
生活・社会的、経験的歴史教育 生徒・児童が経験してきた現代の身近における問題を基礎としつつ、その社会事象の歴史的背景などを探っていくという問題史の応用とも言うべき歴史学習。戦後の社会科教育で一時期盛んであった。
分析・法則・科学的歴史教育 分析哲学・科学説明的歴史教育論に基づき、なるべく歴史教育から一切の価値観・情緒を排除して、歴史における一般法則のみを教育する。
知・情・意の発達をめざす人間形成論的歴史教育 生徒・児童の人間形成の一環として時間的因果の思考力や発展・連続の観念を育成しつつ、人間として必要な知・情・意の全面的な発達を図ろうとする教育。戦後歴史教育の目的として政府・文部省が掲げてきた基本方針ではあるが、受験競争や思想問題が絡んで名目上に留まる部分が多い。

日本の学校教育における歴史教育

小学校

小学校の歴史教育は2つに分けられる。1つは、3・4学年で行う、地域の歴史であり、もう1つは、6学年で行う、通史的な歴史教育である。前者は、昔の道具、地域の偉人や歴史的遺産に焦点をあてる。後者は、日本の古代から近現代にかけての学習である。ただし、中学や高等学校での歴史の構造を学習するものとは異なり、主として、人物や代表的な文化遺産に焦点を当て、テーマ的に通史を学習する。

中学校

社会科の歴史的分野として学習する。主に1-2年生で学習する。古代から近現代にかけての主だった歴史事象が、時系列的に扱われる。

中学校における歴史学習では、日本の歴史の概要を世界の歴史を背景に理解することを目的としている。また歴史にみられる国際関係文化交流のあらましも学習する。

高等学校

地理歴史科で学習し、科目としては日本史世界史に分かれる。日本史では日本の歴史について、世界史では世界の歴史について、それぞれ歴史事象の社会的背景にまで掘り下げて学ぶ。

1994年(平成6年)以降は、世界史が必履修科目で、日本史は地理との選択必履修科目となる。世界史・日本史ともに、近現代史を中心としたA科目(標準単位数2単位)と、通史を学ぶB科目(標準単位数4単位)の2科目がある。世界史・日本史ともに、履修学年や履修順序については指定されていない。

大学

古文書読解・史料批判などの、実証史学が中心となる。文献が読めることが必須である。対象が海外である場合は外国語、日本である場合は、戦前までかなり使われていた「くずし字」の習得が必要となることが多い。

江戸時代に関しては、先達の努力によって、現在非常に多くの文書が残されている。この時代、公文書・伝達・記録などは「くずし字」(草書混じり文)だった。江戸期の出版物も、手彫り木版で「くずし字」を印刷できたため、大半が「くずし字」だった。戦前の政治家も「くずし字」を用いる。

「くずし字」は、高校までの学習で触れる機会が少なく、文体の変化についての情報も少ない。もともと、公文書は漢文が正式だったのが、時代を下るにつれて日本語表記法が混じるようになる。江戸時代には、漢字の行草書・変体仮名・漢文の助辞などが、日本語の語順で並ぶ文章に、定型の返し読みを混ぜて書かれる「候文」が公式文書だった。手紙や記録、日記にいたるまで、かなりの文献がこの様式である。それなのに、「候文」の教育はなされていない。

歴史

日本における歴史教育の教育史

第二次世界大戦以前

日本では、明治時代初期の学制発足以降、歴史を学校で教えるようになった。1890年(明治23年)の教育勅語の発布と小学校令の改正を機に、国家主義的な歴史教育が重視されるようになった。

1902年(明治35年)に発覚した教科書疑獄事件をひとつのきっかけとして、1903年(明治36年)には教科書が国定化された(国定教科書)。教科書国定化に伴い、「忠君愛国」を目指す国定の国史教育が、修身教育とともに国家として重視する方向が強まった。当時は独立教科「国史」として教えられた。

歴史に関しては、明治も早々の1869年(明治元・2年)に、政府自らが歴史編纂に乗り出していた。過去、奈良平安時代に、勅撰国史である『六国史』が編纂されたことにちなむ。この『六国史』はおおむね善悪鑑戒の立場に立つものだった。

このように、民間の歴史研究が進む前に、政府が「歴史」の編纂を始めたのである。これは歴史教育に決定的な影響を与えることになった。それまで、国学系と漢学系は意見が対立していたが、歴史を国民教化の有力な手段にしよう、という点では、両者が一致した。

こうした背景の下に作られた国定日本史教科書の第一章は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)はわが天皇陛下の御先祖にてまします。」という書き出しで始まるものとなった。そして天皇に対する忠孝の度合いが、記載内容の基準となった。

検定制時代の国語の教科書には、考古学に触れている教科書もあった(『高等小学読本巻之一・明治21(1888)年)。神代を省いた歴史教科書もあった。しかし国定制度になって、それ以前にはあった、古い記録に疑問を持ったり、神代を省いたりした教科書は、学校で使えなくなってしまった。

神話で始まる歴史教科書は、明治36(1903)年から昭和20(1945)年の終戦まで、約40年間続いた。

国定日本史教科書第1章は「天照大神」(あまてらすおおみかみ)から始まるものである。以下にその冒頭を紹介する。

「天照大神はわが天皇陛下のご先祖にてまします。その御徳、きはめて高く、あたかも太陽の天上にありて、世界を照らすが如し。大神は、御孫ニニギノミコトに、この国をさづけたまひて、「皇位の盛なること、天地とともにきはまりなかるべし。」と仰せたまひき。万世にうごくことなき、わが大日本帝国の基は、実にここにさだまれるなり。」(『小学日本歴史』一、明治36(1903)年)(皇国史観

その一方では、高等教育大学教育)において、史実の根拠を確かめる作業、「史料批判」に関する古典的文献も出た。

第二次世界大戦以後

第二次大戦敗戦に伴い、占領軍(GHQ)は昭和20年(1945年)10月から12月にかけ、教育に関するいわゆる「四大指令」を発し、軍国主義や極端な国家主義の排除、教職追放、地理・歴史・修身の授業禁止といったGHQ主導による教育改革が進められた。 こうした改革によって、国家主義的な内容を排し、歴史事象を客観的・科学的に扱う方向へと転換した一方、GHQ統制下、彼らの指示または意向に沿う形で、昭和22(1947)年、国会において旧教育基本法が制定され、また翌年には国会衆議院参議院両院において教育勅語の失効決議が可決された。

また社会科が設置されたことに伴い、歴史教育も社会科の中で扱うようになった。その後平成6年(1994年)の高等学校社会科の地理歴史科公民科への改編に伴い、高等学校における歴史教育は地理歴史科が担うこととなった。




「歴史教育」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「歴史教育」の関連用語

歴史教育のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



歴史教育のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの歴史教育 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS