板橋宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 03:52 UTC 版)
名所・旧跡
江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。
- 巣鴨
- 平尾宿(板橋宿)
- 延命地蔵
- (平尾の一里塚) :「#川越街道の起点」参照。痕跡なし。所在地は板橋区板橋1丁目54-1付近(埼京線の踏切の近く)。
- 板橋刑場跡 :幕末期に処刑場があった場所であり、近藤勇が慶応4年4月25日(西暦1868年5月17日)に斬首された地として有名。所在地は北区滝野川7-8。
- 内匠稲荷社
- 平尾追分跡 :「#川越街道の起点」参照。所在地は板橋区板橋4丁目13(商店街入口)。
- 仲宿(板橋宿)
- 東光寺 :境内左手に寛文元年(1662年)建立の庚申塔あり。他に、高さ約3mの地蔵菩薩座像(石造)もある。所在地は板橋区板橋4丁目13-8。
- 観明寺 :建武5年(1338年)の銘がある板碑が残っていることから、室町時代初期の創建とも伝えられる古刹[注釈 18]。真言宗豊山派。門前右手の堂に納められている庚申塔は万治4年(寛文元年、1661年)に建立された板橋区最古のものであり、青面金剛像が彫られた庚申塔としては都内最古。所在地は板橋区板橋3丁目25-1。
- 平尾宿脇本陣跡 :かつて豊田市右衛門家の屋敷があった。豊田家は平尾宿の名主と脇本陣を兼ねた地元の旧家である。今日「板橋宿平尾宿脇本陣跡」の碑を残すのみ。所在地は板橋区板橋3丁目15-10。
- 遍照寺 :所在地は板橋区仲宿40。
- 飯田本陣跡 :飯田新左衛門家が務めた本陣。当家は名主と脇本陣を兼職していた飯田宇兵衛門家から分家したものである。文久元年(1861年)、皇女和宮は江戸城に入る前夜をここで過ごした。建物は明治23年(1890年)、失火によって焼失してしまい、今は「板橋宿本陣跡」の碑が所在を示すのみである。板橋区仲宿47-10。「#縁切榎」も参照。
- 番屋(自身番所)跡 :下総屋。
- 文殊院 :投げ込み寺。所在地は板橋区仲宿28-5。
- (板橋脇本陣) :痕跡なし。
- 板橋 :「#板橋」を参照。
- 石神井川の桜並木 :板橋に最寄りの今日的名所の一つ[13]。
- 上宿(板橋宿)
- 大木戸 :所在地は板橋区本町27とされているが、もともと存在しなかったと言う説もある。
- 板橋宿上宿の碑
- 縁切榎 :「#縁切榎」参照。所在地は板橋区本町18-9。
- 志村
- 志村の一里塚跡 :「#志村の一里塚」参照。所在地は板橋区小豆沢2丁目16(東塚)、板橋区志村1丁目12(西塚)。都営地下鉄三田線志村坂上駅板橋側出口近く。
- 総泉寺(清水薬師)、薬師の泉
- 清水坂 :「#清水坂、ふじ大山道の追分」参照。所在地は板橋区志村2丁目4から5丁目7の間。
- ふじ大山道道標、庚申塔 :上に同じ。寛政4年(1792年)に建立の道標には「大山道 ねりま 川こへみち」とある。万延元年(1860年)建立の庚申塔は道標を兼ねていて、「是從(これより) 冨士山大山道 練馬江一里 柳沢江四里 府中江七里」とある。所在地は板橋区志村2丁目7-1。
- (志村の立場) :上に同じ。痕跡なし。所在地は板橋区志村2丁目および3丁目。
注釈
- ^ 「きそ-かいどう いたばし-の-えき」 当時木曽街道と呼ばれた中山道の名所を描いた名所絵(浮世絵風景画)『木曽海道六十九次』の1枚。
- ^ ぼうじ-くい、ぼうじ-ぐい、ぼうじ-こう。境界の目印として木製の建てられた標柱。
- ^ 名所絵では起点と終点も数に入れるため、表記上の数がずれる。したがって、浦和宿は「第二」の図。
- ^ 現在では、東京都に属する唯一の宿。
- ^ 宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国豊島郡広岡郷の一部。以後、東海道に属す。平安時代末期以降は板橋郷の一部。
- ^ 当時の表現では、宿内人別。
- ^ 当時の表現では、宿内惣家数。宿場内の総戸数。
- ^ 公用な荷物を伝馬で運ぶため、重量を測り運賃を決める役所。当時は貫目御改所(かんめ-お-あらため-しょ)と呼ばれた。中山道上の貫目改所は、板橋宿のほか、信州の洗馬宿と追分宿にも設けられていた。
- ^ ばくろう-やど。馬に荷駄を背負わせ、それらを売りさばく商売をしていた人々が馬喰であり、彼らの宿泊のための施設を馬喰宿と言う。
- ^ 当時は旅立つ者を身内や知人が宿場まで見送りに出る習慣があった。
- ^ 現在の所在地:板橋区本町28
- ^ 距離・日本橋より2里25町33間、10.642 km。
- ^ 参考 :エノキ ;ニレ科エノキ属の落葉高木で、江戸時代には街道を示す目印として一里塚や道路脇に植えられることが多かった。
- ^ 参考 :徳川将軍家御台所
- ^ マコモを粗く編んだ筵(むしろ)。今は藁(わら)を用いる。
- ^ ただし、西塚の2代目榎は昭和42年(1967年)に枯れ、その後、3代目が植えられた。
- ^ 板橋区教育委員会が2000年に清水坂に立てた説明板には「昭和三十年ごろまでは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など都市化の波によってその姿を変えました。」と記されているが、1955年(昭和30年)時点では志村地区における地下鉄敷設計画はまだ立てられていない。同年6月10日に都電志村線が延長開業されたため、ここでは「都電志村線」とするほうが歴史的に正当である。
- ^ 由緒ある古い寺。古寺。
- ^ 1里 = 3.92727…km、1町 = 0.109090…km、1間 = 0.001818…km である。
- ^ 徒歩については「歩く」「徒歩旅行」を参照。短い距離を想定した現代の不動産業の基準値は、時速4.8 km(「徒歩所要時間」参照)。
出典
- ^ ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 144.
- ^ a b c d e f g 亀井千歩子ほか 『中山道を歩く』改訂版 山と溪谷社〈歩く道シリーズ 街道・古道〉、2006年、12- 13頁、ISBN 4-635-60037-8 :一部を除く
- ^ 『中山道宿村大概帳(なかせんどう しゅくそん-だいがいちょう)』に基づく。『宿村大概帳』とは、幕府の道中奉行所が調査した五街道とその脇街道の宿場の記録で、53冊が収蔵されている。各宿場の人口、家数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社、地域の産業、特産品など、宿場と街道筋の村落の状況が詳しく記載されており、五街道分間延絵図とともに道中奉行所が用いたものらしい。成立年代不明ながら、天保から安政(1840- 1850年代)にかけての調査と考えられている。
- ^ “新藤楼縮尺図”. 板橋区立郷土資料館. 2021年6月12日閲覧。
- ^ 上村敏彦『東京の花街、色街、艶な町』p.43
- ^ 江戸名所図会 1927, p. 31.
- ^ 江戸名所図会 1927, pp. 34–35.
- ^ 参考 :板橋十景 板橋(旧中山道の仲宿付近の石神井川にかかる橋)- 板橋区公式サイト
- ^ 現地「縁切榎」の立て札(板橋区教育委員会)の一文、その他に基づく。
- ^ 参考 :縁切霊木譚 - 日本史史料研究会
- ^ 参考 :板橋十景 志村一里塚 - 板橋区公式サイト
- ^ 板橋区ホームページ「時代を紡ぐ 志村一里塚は動かなかった!」
- ^ 参考 :板橋十景 石神井川の桜並木- 板橋区公式サイト
- ^ a b c 『日本紳士録 第41版』東京イの部49-50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月28日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第39版』東京イ、ヰの部49頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
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