川本泰三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 03:00 UTC 版)
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名前 | ||||||
愛称 | シュートの名人 | |||||
カタカナ | カワモト タイゾウ | |||||
ラテン文字 | KAWAMOTO Taizo | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1914年1月17日 大日本帝国、愛知県瀬戸市 | |||||
没年月日 |
1985年9月20日(71歳没)[1] 日本、大阪市北区[1] | |||||
身長 | 172cm[2] | |||||
体重 | 68kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1926-1930 | 大阪府立市岡中学 | |||||
1931-1937 | 早稲田大学ア式蹴球部 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早大WMW | ||||||
大阪サッカークラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1934-1954 | 日本 | 9 | (4) | |||
監督歴 | ||||||
1958 | 日本 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。
在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた[3]。同じく在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され[2]、1回戦のスウェーデン代表戦で日本代表の五輪初得点を記録した。
大学卒業後に同盟通信社に入社。1940年5月に開催された全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に早大WMWの選手として出場して準優勝した。同年6月のフィリピン代表戦に日本代表として出場、1得点したが[4]、1941年8月に第二次世界大戦に伴って従軍。終戦とともにソビエト連邦の捕虜となり、4年にわたりシベリア抑留を余儀なくされた。
1949年12月に帰国し、35歳で現役に復帰。1954 FIFAワールドカップ・予選にも出場。また、1954年アジア競技大会の2試合に出場し、5月3日のインド代表戦ではフル出場し、「40歳106日」の日本代表最年長出場を記録した[5]。
自ら創設した大阪サッカークラブを擁して、天皇杯で3度決勝に進出するも敗れた。
1956年メルボルンオリンピックでは竹腰重丸監督のもとで選手兼コーチとして帯同した。1958年には東京で開催されたアジア競技大会の日本代表監督に就任したが2戦2敗に終わった。
その後は日本サッカー協会理事、関西サッカー協会の理事長・会長を歴任した。関西サッカー協会理事長時代に早稲田大学の後輩でもあった釜本邦茂をヤンマーディーゼルに入るよう口説き落としたのも川本であった[6]。また、並行して川惣電機工業の社長も務めた。
1985年9月20日、大阪市北区の住友病院において胃腫瘍により死去した[1]。
所属クラブ
- ^ a b c 「川本泰三氏死去」 朝日新聞、1985年9月22日、2014年8月7日閲覧
- ^ a b c 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年9月11日閲覧
- ^ “第10回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月9日閲覧。
- ^ 代表TIMELINE 日本サッカー協会
- ^ 日本サッカー協会編『日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011』
- ^ 釜本邦茂 (7) 弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点 賀川サッカーライブラリー
- ^ “先人の功績たたえる/サッカー殿堂を新設”. 東奥日報 (2005年3月16日). 2012年9月20日閲覧。
固有名詞の分類
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