川上哲治
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特筆
人物
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終戦後、神戸の実家に疎開していた身重の妻を見て、食料を自給自足でつくるために故郷の熊本に帰ることを決意する。その後、故郷熊本の人吉で、重い肥桶をかついで、一日に2キロの道中を12,3往復していた[36]。
球界OBの中でも大のゴルフ好きとして知られ、日本レフティーゴルフ協会(左利きゴルファーの同好会)の名誉会長を務めていた(以前は会長だった。川上後の会長職には国松彰が務めていた)。V9時代、キャンプ中の指揮を牧野ヘッドコーチに任せ、専らゴルフに興じていたという。晩年まで週刊ゴルフダイジェストでコラム「日々、ゴルフ惚け」を連載していた。2007年2月23日には、日本プロゴルフ協会から、小林旭・羽佐間正雄らとともに名誉会員に認定された。
大食漢としても有名であった。選手や監督の時、移動途中の一時停車の駅で必ず立ち食い蕎麦やうどんを間食で平らげるのは有名だった。しかしそんな川上でも、王貞治の大食漢ぶりには「とても敵わん」と降参したという。
ストレス解消法として『石磨き』を行っていた。報知新聞で巨人軍担当記者だった瀬古正春(作家:新宮正春)によれば、巨人軍監督時代の川上は旅行バッグの中に電動グラインダーと石を一個入れ、遠征先の宿舎の自室でグラインダーや紙鑢などを使って一心不乱に石を磨き続けていたという[37]。
「球際」という言葉は、相撲の「土俵際」から思いついた川上の造語であり、「チームプレー」という言葉も川上の造語である[38]。
この時代に生まれた人物としては珍しく、自動車免許を持っていた。1955年(昭和30年)4月30日には、後楽園球場の近くにある本郷3丁目交差点にて自動車を運転中、道路わきの安全地帯の縁石に突っ込んで自動車前部を大破した。運転していた川上は軽い打撲で済んだが、同乗していた平山菊二は右目の下を6cm切る裂傷を負ったという[要出典]。
堀田力とともにさわやか国民会議の発起人である。また1994年には、同年に設立された日本プロ野球OBクラブの初代会長を務めた。
「巨人キラー」という言葉を嫌っていた。「この投手は巨人キラー」と発言するアナウンサーがいると、「巨人はそれ以上に(巨人キラーとされている投手を)叩いているから巨人キラーはいない」と答えている。
1971年の新人王を獲得した関本四十四によれば、川上は「投手は120から130球、ボール球を投げても完投できる可能性があるんだ」と常に励ましていたという[39]。
優れた打撃選手としてプライドが高い一面があったようであり、打撃の教育に関してはイエスマンを集めているところがあった。王貞治にも自分の打撃論をおしつけたことがあったが、ホームランバッターとして大成していた王は川上の意見を取り入れず、王の事を不快に思っていた[40]。
チームメイトの時期があった青田昇は、現役時代の川上が親しく話せる数少ない人物であった。青田は川上について、「非常に人見知りが激しいが、親しくなればとことん自分をさらけ出してくる人」と自著で語っている。
丹波哲郎は「軍隊時代に上官だった川上からリンチを受けていた。終戦後に川上が『あのときは仕方なかった』と頭を下げて廻り、巧みな処世術をする川上を見たとき、川上の本性がわかった」と述べている[41][42]。
王貞治は川上のことを「野球だけでなくゴルフでも麻雀でも、とにかく勝つまでやる人であった」と評しており、「大変な負けず嫌いであり、勝つまでやるから、絶対に負けなかったと、その勝利に対する凄まじい執念があったから、V9を達成できた」とも述べている[43]。
その他
現役時代のオフの過ごし方として、禅寺への修業があった。兵役中に同僚だった玉城康四郎の坐禅姿を見て関心を持ったという。また、僧侶達がたくあんを音を立てずに食する様子に興味を持ち、その作法を(僧侶達には直接聞かずに)動作を見て会得した。
沢村栄治及びヴィクトル・スタルヒンの現役時代を本当の意味で知っていて証言できる人物は、チームメイトであった川上を含めほぼ鬼籍に入った。沢村、スタルヒンは共に剛速球投手として知られており、時代が経ってもそのスピードについて議論されることが多い。良く議論の的になるのは沢村の方であるが、千葉茂と川上は共に「スタルヒンのほうが球は速かった、160km/h出ていたはずだ」という共通した見解を示している。さらに川上は、「スタルヒンの横で投げると、自分の方が球が遅く見えるので、スタルヒンと一緒に投球練習するのを沢村は嫌がっていた」と証言している。ただし川上も千葉も入団は1938年であり、沢村の徴兵(1938年)前の全盛期時代(1936〜37年)の球は見ていない。
川上は『打撃の神様』という称号について、「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本喜八が最も相応しい」と語っている。1968年7月、榎本は右翼線へ二塁打を放って通算2000本安打を達成し、控え室で報道陣のインタビューを受けたが、その際に赤い袋に入った1通の祝電が届いた。差出人は川上であり、榎本が他球団で別のリーグの選手であるにもかかわらず、川上は即座に榎本へ祝福を送ったという[44]。沢木耕太郎は著書『敗れざる者たち』(1979年)の中で、「川上は、自分に似て不器用な一塁手であり、しかも努力の才によって天才となったこのバッター(榎本)を、かつての自分に重ね合わせるように見ていたのかもしれない」と記している。
赤バットについて川上は座談会において「ぼくは戦争前に赤バットを使っておったときがあるんです。終戦後は野球のファンといえば子どもだったですよ、主体が。それなら、戦前使っておった赤いのを使ってみようか、ということで、これはぼくだけの考えで、たまたま、赤く塗ったバットを使ったわけですよ。それが評判になった」「銀座になんとかいうバット屋があったんですわ。その会社がスポンサーになって、赤バット、青バットで売り出したわけです。(大下と)二人とも五千円だったか三千円だったかもらって、そのバットを使うという年間契約をしたわけです」「しばらく打ちました。一年間ぐらい。そのうち、ばからしくなってやめたんです」と語っている。[45]。
漫画・アニメの巨人の星では神がかり的な名監督として星飛雄馬、星一徹たち主人公の運命に関わっていく。原作者の梶原一騎は父方の祖父が熊本出身という縁も有って、同じく熊本出身の川上をある意味主人公以上に重要な人物として登場させたかったためである。作品内では、川上の若い頃のエピソードも多く語られている。
巨人軍専務やNHKの野球解説者になってからは、少年野球の指導に熱心に取り組んでいた。自身が健在の頃は1976年から1992年まで毎年夏休みになると『NHK少年野球教室』の番組収録を兼ねて全国各地の中学生チームを対象に基本から打撃・守備などを各項目ごとに分け、川上だけでなくNHK野球解説者だった藤田元司、高田繁、山田久志など往年の名選手も加わって指導を行っていた。その際、川上から講師をしていた各解説者に対して「子供相手に上手く教えられないなら、いい解説なんて出来んぞ」とハッパを掛けられていたという[46]。
注釈
- ^ 現役時代は「かわかみ てつじ」。
- ^ ただし、川上本人は「先にやっていた選手がいた」と証言している。
- ^ 当時の300円という金額は「東京では分からないが、熊本の田舎なら何とか家一軒建てられる」ものだったという[7]。
- ^ また異説[8]として、南海への入団が決まりかけていたが、巨人は南海の加入に既存球団の反対が強かった状況を利用した。巨人の鈴木惣太郎は南海の高須一雄監督を呼び出し、南海の加入に反対しない代わりに川上と吉原の獲得から手を引かせる取引をしたという。
- ^ 赤バットには赤信号の意味をこめ、バットの後ろにはボールを行かせない(ストライクを取らせない)という意味合いがあった[11]という。ただし、川上貴光『父の背番号は16だった』(朝日文庫)によれば、父・哲治はこれで年間1万円をもらった。当時の父の月給の1ヶ月分にも満たない金額だった。当時、並木路子の「「リンゴの唄」が大ヒットしていたので、それと赤バットを結びつけて売り出そうと考えたんだろう」という。
- ^ 「実際には小鶴誠が50本塁打を達成した際の発言で、知名度のない小鶴では記事にならないからと報知新聞の記者が川上の発言に変えた」とする見解もある
- ^ 現役最後の試合となった1958年の日本シリーズでは衰えが顕著であり、もはや引退は誰の目にも明らかだった。対戦相手の西鉄・豊田泰光の著書によると、第7戦ではマウンドの稲尾和久は川上の打席では明らかに力が入っておらず、現役最後の打席となったフライを捕った左翼手関口清治は捕りにくそうにしていたという。豊田はこれについて「味方も敵も、この人がプロ野球を作ってきたことが分かっていたからだ」と述べている。なお、川上は現役時代から豊田を高く評価しており、巨人の監督に就任してすぐに豊田に巨人への移籍を誘っていた[17]。
- ^ 城之内邦雄が言うには、ミスをするたびに罰金を払わせる制度もあったとのこと。
- ^ 生来の口下手に加え、何事にも熱中する凝り性な性格と「肥後もっこす」と称される頑固で妥協しない性格だったため、周囲と衝突することも多く、特に与那嶺要、広岡達朗、森昌彦とは犬猿の仲であったといわれる(広岡と森とは後に和解したが、与那嶺は川上との過去の確執から巨人のOB会に参加していない)。
- ^ 詳しくは平松政次・平光清を参照。
- ^ 1974年は10連覇を逃したが、優勝をしても退任する予定としていた
- ^ そのシーズン29本塁打も自己最高記録であった。
- ^ 元々太平洋戦争を扱った戦記アニメだったが、最終回となった第26話のみプロ野球をテーマとした川上へのインタビュー番組となった。
出典
- ^ a b c d “巨人V9「打撃の神様」川上哲治氏死去”. 日刊スポーツ (2013年10月30日). 2013年10月30日閲覧。
- ^ “【野球】2000安打ラッシュとなるか。大記録まで残り100本を切った5選手たち”. デイリースポーツ online (2017年5月9日). 2022年8月23日閲覧。
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- ^ 『ジャイアンツ栄光の70年』 (ベースボールマガジン社)
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- ^ “Q&A「Q. 甲子園球場の黒土について教えてください。」”. 阪神甲子園球場. 2021年9月11日閲覧。
- ^ a b 『川上哲治 もっこす人生』
- ^ 大和球士『プロ野球三国志 第四巻』(ベースボールマガジン社)
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.30〜
- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」634ページ
- ^ 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』(講談社文庫、1999年)P.180
- ^ 川上哲治 豪打列伝
- ^ 鈴木陽一『巨人軍監督の決断』講談社、1987年、p.161
- ^ 鈴木、1987年、p.162
- ^ 鈴木、1987年、p.163
- ^ “川上哲治さんにまつわる美談。プロというのはプライドの塊である/廣岡達朗コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2021年10月15日). 2021年10月17日閲覧。
- ^ 豊田泰光著 「プロ野球を殺すのはだれだ」
- ^ 朝日新聞1962年2月23日7面「キャンプ回りに拾う(上)報道陣泣かせの巨人 東映、大洋はのんびり」朝日新聞縮刷版1962年2月p479
- ^ “川上哲治氏が徹底排除した広岡達朗氏 涙が出た仕打ち述懐”. 週刊ポスト. (2014年8月12日) 2021年9月11日閲覧。
- ^ 川上哲治——背負い続けた「孤独」 『一故人』 近藤正高 cakes 2013年11月22日付
- ^ 川上哲治『巨人軍の鬼といわれて わが野球人生50年』読売新聞社、1974年、p228-p230
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- ^ 西武「クラウン」を買収 所沢新球場に本拠地『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月13日朝刊、13版、23面
- ^ 2013年11月10日NHK総合テレビジョン特別番組「さよなら川上哲治さん 打撃の神様と言われた男」より
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- ^ 丹波哲郎が語る「死後の世界の実相」 週刊大衆、2004年(平成16年)11月8日号。
- ^ 『オーラの運命(さだめ)― この世もあの世もバラ色にする黄金法則』丹波哲郎、双葉社、2005年10月、ISBN 4575298441。
- ^ WiLL2013年2月号王貞治新春対談
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- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ
- ^ 週刊ベースボール2013年6月3日号95ページ
- ^ 高野光平『発掘!歴史に埋もれたテレビCM : 見たことのない昭和30年代』光文社〈光文社新書 ; 1018〉、2019年、226-228頁。ISBN 9784334044268。
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