大津町 (茨城県)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 06:58 UTC 版)
おおつまち 大津町 | |
---|---|
廃止日 | 1956年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 磯原町、大津町、平潟町、関南村、関本村、南中郷村 → 茨城市 (即日改称し北茨城市になる) |
現在の自治体 | 北茨城市 |
廃止時点のデータ | |
国 |
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地方 | 関東地方 |
都道府県 | 茨城県 |
郡 | 多賀郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 | 平潟町、関本村、関南村 |
大津町役場 | |
所在地 | 茨城県多賀郡大津町 |
座標 | 北緯36度51分32秒 東経140度44分59秒 / 北緯36.859度 東経140.74969度座標: 北緯36度51分32秒 東経140度44分59秒 / 北緯36.859度 東経140.74969度 |
ウィキプロジェクト |
大津町(おおつまち)は茨城県多賀郡にかつて存在した町である。
地理
現在の北茨城市の北東部に位置し、太平洋に面しているが、町域は多賀山地の一部でほとんど山がちな地形になっている。
歴史
町内の五浦海岸には1906年(明治39年)に岡倉天心率いる日本美術院が東京から移転した[1]。同院は天心が亡くなる1913年(大正2年)までこの地にあり、天心ゆかりの六角堂にはインドの詩人・ラビンドラナート・タゴールが1916年(大正5年)8月に訪れている[2]。
第二次世界大戦中の1944年から1945年にかけては、海岸線から風船爆弾の放球が行われていた(全国で3か所のうちの1つ)[3]。
1951年(昭和26年)11月22日、町内でがけ崩れが発生。死者5人、重軽傷者5人[4]。
町域の変遷
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、大津村は単独で町制施行し多賀郡大津町が発足。
- 1956年(昭和31年)3月31日 - 大津町は磯原町・平潟町・南中郷村・関南村・関本村とともに合併し、茨城市が発足。大津町は消滅。同日、改称し北茨城市となる。
変遷表
1868年 以前 |
明治22年 4月1日 |
昭和31年 3月31日 |
現在 | |
---|---|---|---|---|
大津村 | 大津町 | 茨城市 即日改称 北茨城市 |
北茨城市 |
人口・世帯
人口
総数 [単位: 人]
1891年(明治24年) | ![]() ![]() ![]() ![]() |
1902年(明治35年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1920年(大正 9年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1935年(昭和10年) | ![]() ![]() ![]() ![]() |
1950年(昭和25年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1955年(昭和30年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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世帯
総数 [単位: 世帯]
1920年(大正 9年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1935年(昭和10年) | ![]() ![]() ![]() |
1950年(昭和25年) | ![]() ![]() ![]() ![]() |
1955年(昭和30年) | ![]() ![]() ![]() |
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交通
鉄道
※関本駅の所在地は関本村である。
道路
脚注
参考文献
- 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 8 茨城県』、角川書店、1983年 ISBN 4040010809
- 北茨城市史編さん委員会 編『北茨城市史 下巻』北茨城市、昭和62年6月25日、849pp.
関連項目
「大津町 (茨城県)」の例文・使い方・用例・文例
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