外務省ユダヤ難民取り扱い規則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 20:03 UTC 版)
猶太避難民ノ取扱方ニ関スル訓令 | |
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日本の法令 | |
通称・略称 |
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法令番号 | 昭和13年10月7日外務大臣訓令(米三 機密 合 第1447號) |
効力 | 1941年(昭和16年)12月8日対米英宣戦布告時点において無効[1] |
主な内容 | ユダヤ人避難民の受け入れ規制 |
昭和初期の日本の外務省におけるユダヤ難民の取り扱いとして、1938年(昭和13年)4月、外務省、陸軍省、海軍省の幹部による外務省内の委員会「回教及び猶太問題委員会」(イスラム教およびユダヤ問題委員会)が非公式に発足した[4]。1938年10月5日に外務省が招集した「回教及び猶太問題委員会」幹事会においては、外務省、内務省、陸軍省、海軍省の21名の出席者によりユダヤ難民に対する協議がなされた[5]。この協議を経て近衛外務大臣より在外公館長へ発せられた機密の訓令が本訓令(米三 機密 合 第一四四七號)である。
概要
当時、ドイツの反ユダヤ主義政策によりヨーロッパから脱出するユダヤ難民が多数発生していた。ユダヤ難民はアメリカや現在のイスラエルに脱出したが、アメリカへ向かうコースは大西洋を渡るコースと、シベリア鉄道やインド洋航路で日本を経由して太平洋を越えるコースがあった。[要出典]
1938年10月5日「回教及びユダヤ問題委員会」幹事会の協議は “1935年の内務、拓務、外務各省の協議「ドイツ避難民に関する件」の規則では在ウィーン総領事からの請訓電に対応できない”、 “ドイツ旅券には本人がユダヤ人か否かの記載はないので、その入国取締りは容易でなく、また日本が公然反ユダヤ政策を採っているという印象を海外に与えてはならない” などいくつかの結論に至った[6]。
本政策は、それまであったビザ発給資格の条件を大幅に厳しくすることで、ユダヤ難民の日本を経由した脱出を妨げる狙いがあった。もっとも,アメリカのユダヤ人移民に関する法案、エビアン・カンファレンスが制定される1930年代終わりまでユダヤ移民に開かれた国を見つけることは不可能に等しかった。1938年(昭和13年)10月7日付けで外務大臣から各在外公館長に対して発信された訓令にその内容が記されている。
「猶太避難民ノ取扱方ニ関スル訓令」全文
文書課發送 昭和拾参年拾月拾日 發送済 | |
主管 亞米利加局長[* 1] 主任 第三課長[* 2] 昭和十三年十月五日起草 | |
米三 機密 合 第一四四七號 昭和拾参年拾月七日附 | |
受信人名 宛先末尾記載ノ通 発信人名 近衛外務大臣 | |
件名 猶太避難民ノ入國ニ関スル件 | |
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- 外務省外交史料館の記録文書「民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻 分割2」(アジア歴史資料センター収録画像ページ77、78、79)より引用。引用元は縦書き。上部欄外に「通過者留外」。
- 「猶太避難民ノ入國ニ関スル件」は当該案件をこのように呼んでいるのであって、この件名で発せられた文書は他にもある[7]。
- 当該起案文書の「寫」(うつし)文書には「㑹合」の語句なし、「寫」文書の上部欄外には「(三)ニ該當ノ國ハ実際ニ於テハ當時残シト英國ノミナリキ」の文言あり[2]。
- 1938年における日本円の価値は、食パン1斤(600グラム)が20銭(0.2円)、駅弁が30銭、第一ホテルのシングル宿泊代が2円80銭、国民服が10円、市電運転手の初任給が50円から60円、日劇ダンシングチームの月給が100円である[8]。
- 現行の「外国人入国令」とは、内務省の大正7年1月24日省令第1号「外国人入国ニ関スル件」[* 5]であり、入国を取り締まる規則の「外国人入国取締規則」とは別である[* 6]。
訓令発令後の動き
猶太人対策要綱
この訓令発令された前後には、欧州の日本公館にビザを求めるユダヤ人が連日のように押しかけてきており、本国の訓令はその現状を無視したものであった。対処不能に陥った在外公館より当訓令について見直しを求める電報が数多く送られ[要出典]、特にウィーン総領事館の山路総領事は外務省に対し1938年10月17日「一般的猶太人排斥政策ヲ執ルコトハ差當リ不得策ト思考スル」と打電している[9]。在外公館からの悲鳴のような電報に[要出典]日本政府が動いたのは12月になってからで、12月1日に陸海軍内務省との間に事態打開のための協議を申し入れ、12月6日に方針を変更した「猶太人対策要綱」を決定することになる。
有田訓令
「猶太人対策要綱」に基づき、外務省は翌日の12月7日、有田八郎外務大臣から訓令「暗 合 第3544号」(件名: 猶太避難民ニ関スル件)を在外各公館長に回電した(引用元は縦書き)[10]。
昭和十三年十二月六日起草 | |
電送 第31023號 昭和13.12.7 午前11時10分發 發 有田大臣 | |
件名 猶太避難民ニ関スル件 暗 合 第三五四四號 | |
右ハ本邦ニ関スル限リ往信米三機密合第一四四七号[* 8]ノ趣旨ト同一ナルニ依リ其ノ取扱方ニ付テハ同信記載ノ要項ニ依リ御處理アリタシ唯入國條件ニ抵触セサル資本家、技術家ノ如キ者ノ入國ニ付テハ豫メ事情ヲ詳具シ請訓相成様致度シ
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この有田訓令は近衛訓令「米三機密合第1447号」とともに1941年12月8日の対米英宣戦布告時点において無効になっていた[1]。
- 1 外務省ユダヤ難民取り扱い規則とは
- 2 外務省ユダヤ難民取り扱い規則の概要
- 3 杉原千畝の発給ビザ
- 4 脚注
- 5 参考文献
- 6 関連項目
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