史記
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史記にあらわれる故事成語
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。
- 「酒池肉林」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老
- 「百発百中」 巻4・周本紀
- 「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀
- 「鹿を馬となす」(「馬鹿」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀
- 「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀
- 「鴻門の会」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝
- 「四面楚歌」 巻7・項羽本紀
- 「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀
- 「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀
- 「左袒」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀
- 「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『春秋左伝』僖公五年
- 「宋襄の仁」 巻39・晋世家。初出は『韓非子』外儲説左上
- 「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王勾践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『韓非子』内儲説下
- 「臥薪嘗胆」 巻41・越王勾践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『十八史略』春秋など)
- 「満を持す」 巻41・越王勾践世家
- 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家
- 「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上
- 「立錐の地なし」 巻55・留侯世家
- 「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝
- 「管鮑の交わり」 巻62・管晏列伝。初出は『列子』力命
- 「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝
- 「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」 巻69・蘇秦列伝
- 「完璧」 巻81・廉頗藺相如列伝
- 「刎頸の交わり」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝
- 「士は己を知る者のために死す」 巻86・刺客列伝
- 「傍若無人」 巻86・刺客列伝
- 「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝
- 「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝
- 「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『孟子』梁恵王下
- 「国士無双」 巻92・淮陰侯列伝
- 「背水の陣」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官
- 「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝
- 「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝
- 「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝
- 「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝
- 「曲学阿世」 巻121・儒林列伝
- 「鳴かず飛ばず」 巻126・滑稽列伝・淳于髠
- 「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『漢書』巻40・張良伝
注釈
- ^ 「太史公自序」では、司馬氏はもともと周の史官であったとするが、実際には春秋時代以前の司馬氏の来歴については信頼できない。司馬遷の祖先のうち、最も早く史実である可能性が高いものは、紀元前4世紀末に少梁に居住した秦人であったという記録である(吉本1996、p.193)。
- ^ 現行の「孝武本紀」は司馬遷の手によるものではない。「太史公自序」によれば、司馬遷の手による「今上本紀」が存在していたことは分かるが、早くに亡佚している。現行の本紀は前漢の褚少孫が補作したものとも言われるが、内容が「封禅書」の大部分をそのまま採録したものであり、褚少孫の補作ですらないとする見解(清の銭大昕)もある。
- ^ 増田欣『『太平記』の比較文学的研究』p112-p125(角川書店、1976年)の算出方法による。また、『太平記』章段の事書は西源院本に基づく。なお、例えば楚漢の興亡が『平家物語』・『平治物語』・『源平盛衰記』で紹介されているように、種々の軍記物語が『史記』にみえる説話を用いている。しかし、『史記』のテキストとの比較により、これらの軍記物語と『史記』との直接的関連を否定するのが通説的見解のようである。増田・前掲書p207以降。『平家物語』につき、山下宏明ら編・軍記文学研究叢書5『平家物語の生成』p129(汲古書院、1997年)。
- ^ 川瀬一馬『足利學校の研究』p32(講談社、1974年)。もっとも、『史記』は足利学校で教材とされる唯一の史書であり続けた訳ではなく、享保13年(1728年)の蔵書目録には『両漢書』・『通鑑』などがみえる。同書p167・p253。なお、「三注」とは『古注蒙求』・『千字文注』・『胡曾詩註』をいう
出典
- ^ 川勝 1973, pp. 7–10.
- ^ 川勝 1973, pp. 31–33.
- ^ 川勝 1973, pp. 34–38.
- ^ 川勝 1973, p. 39.
- ^ 川勝 1973, pp. 39–41.
- ^ a b 青木 1984, p. 176.
- ^ 川勝 1973, p. 65.
- ^ 増井 1987, p. 9.
- ^ 川勝 1973, p. 41.
- ^ a b c 吉本 1996, p. 125.
- ^ 川勝 1973, pp. 46–47.
- ^ 吉本 1996, p. 140.
- ^ 吉本 1996, pp. 220–221.
- ^ 吉本 1996, pp. 159–160.
- ^ 吉本 1996, pp. 73–79.
- ^ 吉本 1996, pp. 184–185.
- ^ a b c d e 米田 & 永田 1983, p. 118.
- ^ 吉本 1996, pp. 186–187.
- ^ 吉本 1996, p. 187.
- ^ 増井 1987, pp. 19–10.
- ^ 内山 2003, pp. 17–18.
- ^ 青木 1984, pp. 176–177.
- ^ a b c d 宮崎 1979, pp. 18–19.
- ^ 水澤 1984, pp. 163–164.
- ^ 吉川 2010, pp. 15–16.
- ^ a b c 吉本 1996, p. 216.
- ^ a b 川勝 1973, pp. 28–29.
- ^ 吉本 1996, p. 220.
- ^ 川勝 1973, pp. 56.
- ^ 川勝 1973, pp. 58–59.
- ^ 宮崎 1979, p. 150.
- ^ a b 宮崎 1979, pp. 20–22.
- ^ a b 吉本 1996, p. 211.
- ^ a b c d 吉本 1996, p. 213.
- ^ 吉川 2010, pp. 10–11.
- ^ 吉川 2010, pp. 8–9.
- ^ 宮崎 1979, p. 191.
- ^ 史記列伝・解説
- ^ 岡田正之『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)。
- ^ 指定文化財|国宝|史記孝文本紀第十(宮城県)
- ^ 『日本国見在書目録』の撰述時期は、未確定だが、本項では大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年)を参照。
- ^ 中西進・厳紹璗編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p207(大修館書店、1995年)の算出方法による。
- ^ 福井保『紅葉山文庫』p39(郷学舎、1980年)。
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