則天文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 06:57 UTC 版)
則天文字が使われた例
太字が則天文字に改められた箇所。
- 天冊金輪聖神皇帝:
- 注:天冊金輪聖神皇帝は武則天の尊号の一つ。武則天自身が『昇仙太子碑』の中に記している。
- 證聖元年九月九日:
- 注:「證聖」は武則天時代の年号の一つ。
- 天授二年正月初一:
- 注:「天授」は武則天時代の年号の一つ。「正月初一」は元日。
- 君臣佳天地:
中国国外への影響
唐王朝は則天文字をすぐに撤廃したが、中国国外には広く伝わった。特に河西回廊(現甘粛省)と西域(現新疆、中央アジア)である。中国では15年間しか使われなかったのに対し、これらの地域では200年にわたって使われた。敦煌では中国で失われていた『大雲経』『大雲経疏』といった書物が見つかり、貴重な研究資料になっている。
部分的にではあるが日本や朝鮮半島にも伝わった。例えば江戸時代の大名「德川光國」は1679年頃(本人52歳の時)「德川光圀」に改名した。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている。また、本国寺は光圀から一字をもらって本圀寺となっている。
武則天の碑刻は後世に数多く伝わっており、とりわけ彼女の自筆『昇仙太子碑』が有名であり、「千古美文」と呼ばれている。右上の写真はその拓本の断片で、自身の尊号「大周天冊金輪聖神皇帝」の天の字が「」に、聖の字が「」になっている。河南省新安県鉄門鎮にある『千唐志斎碑刻』には、則天文字が数多く書かれている。
後世の南漢創建者である劉巌は武則天を真似て、自分の名を表す文字「龑[50]」(拼音:Yǎn, 注音符号:ㄧㄢˇ)を創作した。この字は「天を飛ぶ龍」を表している。現代中国では簡体字「䶮 ()[51]」として書かれる[52]。
近年では、漢字を使用する各国いずれとも則天文字が日常使用されることはまれである。
昇仙太子碑
『昇仙太子碑』(しょうせんたいしひ)の建碑は聖暦2年(699年)。武則天は国を周と号したことから古代の周の太子[53]の廟を修復し、これを記念して自ら撰文し、自ら書し、建碑した。碑石は426cm×160cmと非常に大きな立派な碑で、河南省洛陽市偃師区の仙君廟(せんくんびょう)に現存し、保存もよい。
碑額は飛白体で、「昇仙太子之碑」の6字を2行で入れ、碑文の33行は行草体で書かれている。ただし、首行の「大周天冊金輪聖神皇帝御製御書」と末行の「聖暦二年歳次己亥六月甲申朔十九日壬寅建」だけが楷書体で、この楷書部分だけは薛稷によって書かれていることが碑陰の書刻によって知られている。
この碑は、碑文に草書を用いた碑として、また女性の書碑として最初のものである。碑文に行書を用いた最初の碑は太宗の『晋祠銘』であり、この『晋祠銘』の碑額も飛白体で書かれていることから、これを意識してのことと考えられる。武則天の書は、太宗の影響を受けて堂々たるものであり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも遒勁である。[54][49][55]
比田井南谷は武則天の書について、「よく古典を習って、筆力もあり、実力はかなり評価すべきであるが、結体・用筆ともに変化に乏しく、技巧的な表現に留まっている。また俗な性格を表現しているので格調が下がり、通俗的なおもしろさの範囲を出るものではない。(趣意)」と述べている。[55]
参考資料、注釈
その他参考文献
- 『伝奇太后之武則天』、黄正建(中国社会科学院研究員)
- 『武則天私秘生活全記録』、司馬路人、中国戯劇出版社
- 『則天造字と日本における「則天文字」の受容』、中国西北大学教授王維坤、『古代の日本と渡来の文化』(ISBN 4311300352)81-94頁
- 『則天文字の周圏論的性質について』、笹原宏之、1987年
- 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
- 西林昭一・鶴田一雄 「隋・唐」(『ヴィジュアル書芸術全集』第6巻 雄山閣、1993年8月)ISBN 4-639-01036-2
- 比田井南谷 『中国書道史事典』普及版(天来書院、2008年8月)ISBN 978-4-88715-207-6
- ^ U+57CA
- ^ U+22611
- ^ U+66CC
- ^ 潘吉星、論韓國發現的印本『無垢浄光大陀羅尼経』、科学通報・1997、42 (10):1009-1028。
- ^ 從兩《唐書・則天后本紀》和《資治通鑑》、《唐会要・帝號上・中宗》作「二月初五」(3月4日)、誤。
- ^ U+20011「丙(へい・ひのえ)」とは別字。
- ^ U+211A0
- ^ U+56DD
- ^ U+3007 ※但し0の漢数字として登録されている。
- ^ U+20E9E
- ^ U+21540
- ^ U+21508
- ^ U+20866
- ^ U+2067A
- ^ U+25822
- ^ U+24A89
- ^ U+28CA2
- ^ U+24BD4
- ^ ただし、現代中国では「僭称」(即位を認めない)とされることが多い。
- ^ 権若訥の上奏は清の洪邁が著書『容斎随筆』・『容斎続筆』の中で述べている。
- ^ 北宋の王欽若の編書『冊府元亀』。
- ^ 《字彙》:「同『照』。」按《正字通》:「唐武后自製十九字、以『瞾』爲名、與『照』音義同、從明、非從二目也。後訛爲『曌』。」《字彙》改作「瞾」、《字彙補》又作「曌」、並非。
- ^ 《漢語大字典》:「同『天』、唐武則天所造字。」
- ^ 《玉篇》:「古『地』字。《前漢・趙充國傳》:『令不得帰肥繞之埊。』」按《類篇》謂唐武后作埊、非。又趙與時《賓退録・五》:「武后改易新字、如以山水土爲地、千千万万爲年、永主久王爲證、長正主爲聖。」
- ^ 《集韻》:「入質切、同『日』。《説文》:『実也、太陽之精不虧、從囗、一象形。』唐武后作。」
- ^ 《集韻》:「魚厥切、音『刖』、與『月』同、武后所作。」
- ^ 《字彙補》:「與『月』同、武則天制。」見《大周泰山碑》。
- ^ 王三慶、論武后新字的創製與興廢兼論文字的正俗問題、成大中文学報・2005年12月、(13)。
- ^ 《新唐書・后妃傳上・則天武皇后傳》:「載初中、又享万象神宮、以太穆、文德二皇后配皇地祇、引周忠孝太后從配。作……、、……、十又二文。」
- ^ 《字彙補》:「唐武后所制『君』字。」
- ^ 《字彙補》:「古文『臣』字。」
- ^ 《漢語大字典》:「同『載』、唐武則天所造字。」
- ^ 《新唐書・后妃傳上・則天武皇后傳》:「載初中、又享万象神宮、以太穆、文德二皇后配皇地祇、引周忠孝太后從配。作……、𠧋、……、十又二文。」
- ^ 《字彙補》:「武則天所制『初』字。」
- ^ 趙與時《賓退録・五》:「武后改易新字、如以山水土爲地、千千万万爲年、永主久王爲證、長正主爲聖。」
- ^ 與「年」同、武則天制、見《大周泰山碑》。
- ^ 《字彙補》:「武后所制『正』字。」
- ^ 《集韻》:「承呪切、音『授』、付也。又姓出《姓苑》。」《字彙》:「唐武后改『授』作『𥢓 』。」
- ^ 《集韻》:「授、或作『』、唐武后改『授』作『』。」
- ^ 《金石文字弁異》:「武后改易新字、以永主久王爲證。」又趙與時《賓退録・五》:「武后改易新字、如以山水土爲地、千千万万爲年、永主久王爲證、長正主爲聖。」
- ^ 《集韻》:「證、唐武后作『』。」
- ^ 《字彙補》:「武則天所制『聖』字。」見《大周泰山碑》。又趙與時《賓退録・五》:「武后改易新字、如以山水土爲地、千千万万爲年、永主久王爲證、長正主爲聖。」
- ^ 《玉篇》:「古文『國』字。」唐武后所作。《正字通》:「唐武后時、有言『國』中『或』者、惑也、請以『武』鎮之、又有言武在囗中、與困何異、復改爲圀。」
- ^ 《字彙補》:「與『人』同、唐武后制。」
- ^ 《新唐書・后妃傳上・則天武皇后傳》:「載初中、又享万象神宮、以太穆、文德二皇后配皇地祇、引周忠孝太后從配。作……、、……、十又二文。」
- ^ 《字彙補》:「與『幼』同、武則天制。」
- ^ 《宣和書譜》卷一:「(武后)增減前人筆畫、自我作古、爲十九字、曰:……。」
- ^ 《字彙補》:「同『應』、唐武后制。」見《大周泰山碑》。
- ^ a b 西林昭一 P.85
- ^ U+9F91
- ^ U+4DAE
- ^ 『辞海・縮影本』1999年版に見える。
- ^ 昇仙太子とは、周の霊王の太子のことで、白鶴に乗って昇天したとの伝説がある(西林昭一 P.85)。
- ^ 木村卜堂 P.152
- ^ a b 比田井南谷 P.192 - 193
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