文字の伝播と新たな文字の制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 10:24 UTC 版)
「則天文字」の記事における「文字の伝播と新たな文字の制定」の解説
載初元年(690年)7月、聖母神皇(即位前に武則天が自身をこう呼ばせた)の武則天は、仏典『大雲経』の中に「弥勒降生」「女子為王」といったことが書かれていたことを利用して、洛陽白馬寺住持の薛懐義に命じて注釈書『大雲経疏』を書かせ、その中で「武則天が皇位に就く事は仏典に定められていることだ」と宣伝させた。この本は全国各地に頒布され、この本と共に、則天文字も全国に広まった。なお、懐義は武則天の愛人であるとされている。 同年9月9日の重陽の日に、武則天は正式に皇位に付き、年号天授に改めた。天授年間、授の字がに変えられた(天の字はすでにに変えられている)。695年、元号を證聖に改めると、證(証)の字はに、聖の字はに改められた。同年6月下旬、國(国)の字が(=圀に同じ)に改められた。聖暦年間(698年)、人の字に代わってが登場した。 則天文字は、以上の17字と考えられている。時に21字と言われることもあるが、これは昔[いつ?]の学者が唱えた説が未だに信じられているためである。
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