京 (ミュージシャン)
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経歴
- 1993年から、月蝕、Viṣṇu、Masqueradeなどのバンドを経てLa:Sadie's結成。
- 1997年1月15日、大阪a.m.HALLのLIVEにてLa:Sadie's解散。
- 1997年2月、大阪にてDIR EN GREYを結成。
- 1999年1月20日、「アクロの丘」「残-ZAN-」「ゆらめき」のシングル3枚同時リリースでメジャーデビュー。
- 2000年3月20日、ファッションブランド「BA-TSU」とのコラボイベントをラフォーレ原宿にて開催。
- 2001年8月31日、詩集「自虐、斂葬腐乱シネマ」発行。また「第三帝國楽団」としてソロCDを付属。
- 2004年12月3日、詩集「前略、お元気ですか。最果ての地より名も無き君に愛をこめて…」発行。「腐乱シネマ帝國楽団」としてソロCDを付属。
- 2004年12月27日から31日、ギャラリーハセガワにて個展を開催。
- 2005年以降は、日本国内に留まらず海外での活動も活発化している。
- 2013年、ソロ活動としてのバンドsukekiyoを結成。
- 2021年、L'Arc〜en〜CielのyukihiroやMUCCのミヤらと共にPetit Brabanconを結成。
幼少期
パン屋を経営している家庭で育つ。家業が忙しかった故か、幼少期の写真などは残っておらず、幼児期の記憶もほとんどないという。
小学生の頃は、仮面ライダーやゲーム、映画、外で遊ぶことが好きな、どこにでもいるような一般的な子供だったというが、同時に妙に冷めている部分があり、色々な人と仲良くなる反面、どこのグループにも属することがなかったため、親戚や周りの人間から「ヘンコ(変な子)」と指摘されていたという。
中学生の頃から、世の中に対する不満や疑問を強く抱き始めた。この時期から段々と音楽に目覚めていき、BUCK-TICKやXといったバンドに熱中し、同時にバンドというものに興味を惹かれていった。音楽に興味をもったキッカケはBUCK-TICKであり、理由は「(メンバーの)髪型がアニメキャラのようだったから」とのこと。その後は友人の影響で更にそうした音楽を聴くようになり、特にテンポが速く激しい曲に共鳴していった。
始めはXのギタリストhideが好きで、hideモデルのギターを買ったがコードなどが押さえられずに挫折し、ベースにも挑戦したが同様に弾きこなすことができず、ドラムには興味が沸かず、好きなアーティストにはボーカルが多かったこともあり、自分が本当にやりたいことは自分自身を表現できるボーカルであると悟り、その道を選ぶ。
勉強もスポーツも不良も嫌いだったが、音楽だけは相当好きになり、ギターを初めて買った時には既に、バンド活動以外にやりたいことは何もないと考えており、これしかない、これ以外に自分は何も出来ない、そうでなかったら駄目な人間になってしまうという程に気持ちが強くなっていた。故に、高校も「行かない」と言い切り、周囲の人間に無理矢理受験させられたものの、ミュージシャン以外の道に進みたくなかったために書類等は白紙で提出し、進学することはなかった。以降はバンド活動のみの日々を送ることになる。
中学卒業後
中学卒業後はバイトやローディーをしながら生計を立てていた。また、卒業と同時に髪の毛をピンクに染めるなど、様相が激しくなっていった。
その後、中央市場でアルバイトをしていた時にALBATROSSというバンドに誘われローディーを始める。バンドはCDもリリースしツアーも行っていたので、仕組みや打ち上げの礼儀など良いことも悪いことも見つけることが出来て勉強になったことが多かったとのこと。一方では自身のバンドメンバーの募集もしていた。
その頃、雑誌で当時はまだそこまで知名度のなかった黒夢を知り、1992年12月5日、京都のロック天国に黒夢ライヴを見て衝撃を受け「自分の求めていたスタイルはこれだ」と感じ、以後大阪で4回ローディーを務める。
16歳の頃、イベントでローディー組によるバンドを組んだ時に初めてメイクをした。当時から色々と研究していたようで、様々なバンドのメイクを組み合わせた様なものだったという。この時から、自分がバンドやライヴに求めていたものへの確かな手応えを感じていった。また、バンド活動を続けていくことを両親から反対されていたが、「絶対に売れるから」と言い続けた。
17歳の時に地元京都で初めてバンド月蝕を結成し、1993年9月29日に初ライブを行う[1]。当時のステージネームは「殀磨」(よま)[1]。最初から曲はオリジナルだった。この時から既にメイクを施したライヴを行っており、同時にオムニバスCDへの参加やデモテープの配布などもしていた。結成9ヶ月で1994年4月11日に解散し[1]、5月にViṣṇu(ヴィシュヌ)を結成[1]。Viṣṇuの期間中、「殀磨」から現在の「京」に改名した。1995年5月24日にViṣṇuのベーシストが脱退し、Masquerade(マスカレード)を結成、7月に初LIVEを行う[2]。主に大阪を中心に活動し、オリジナル楽曲を披露し、デモテープの配布等を行っていた[要出典]。1995年10月に解散。
バンド解散後は、バンドの友人や知り合いのスタッフがいた関係で、18歳の時に京都から大阪に移住するようになる。大阪に移住後、廃人黒薔薇族というセッション・バンドを組む。このバンドで、後のDIR EN GREYのドラマーShinyaと出会う。また、新しいバンドを組むことになった京は尼崎LIVE SQUAREというライブハウスに掲示されていた白黒のライヴ告知のパンフレットを見て、それに写っていたギダリストのDieと連絡をとり、ギタリストに誘う。
このセッションバンドは後の「La:Sadie's」へと発展していく。廃人黒薔薇族解散後、京、メンバーだったKisaki、Shinyaの三人に、ギタリストDieと紫緒を加えた5人でLa:Sadie'sを結成する。
La:Sadie's時代
この頃、尼崎に出没していた後のDIR EN GREYのリーダーとなる薫と大阪城ホール(XのLIVEが行われていた)で知り合う。後に薫はLa:Sadie'sに加入する(KAORU名義)。
京のライブパフォーマンスはこの頃から激しく異彩を放っていた、ドーランで髪を白く塗り、特攻服を着て木刀を持って客席で暴れたというエピソードがある。当時のインタビューでは自身のパフォーマンスについて「もっと自分の色を追求しつつ自分の毒を出していきたい。兎に角存在自体が毒ですから。」と発言している。
ツアーで訪れた長野県で対バン相手として出演していたToshiyaのライブパフォーマンスに惹かれる。 後の打ち上げでToshiyaに声を掛けられ、以来大阪に帰ってからも頻繁に連絡を取り合うようになる。当時のToshiyaについて京は「初めて見た時は髪の毛真っ青で何か暗そうなお兄さんがいるな…という第一印象だったが、ライブになったら全然違う。普段はボーッとしているけど(ライブになると)凄い動いててカッコいい。」と語っている。一方Toshiyaは「(バンドを観た時の)インパクトで言ったらやっぱり彼だったし、最初に声を掛けて来たのも彼だったし。そういう意味では俺にとって大きい存在ですね。」と語っている。
1997年1月15日にLa:Sadie'sは解散し、1997年2月、元メンバーにToshiyaを加えた5人でDIR EN GREYが結成されることとなる。
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