五式中戦車 概要

五式中戦車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 20:19 UTC 版)

概要

設計開発に至る前段階の構想として、1942年(昭和17年)9月、陸軍兵器行政本部研究方針の中で長砲身57mm戦車砲搭載の新中戦車(乙)の存在がある。これは固定式戦闘室の駆逐戦車であったが、方針の変更により長砲身75mm戦車砲搭載の35t級中戦車に要求が引き上げられた。

チリチリ車)の具体的な開発は1943年(昭和18年)7月の「兵器行政本部研究方針」の変更により始まる。この変更は独ソ戦におけるドイツ軍ソ連軍の間に発生した戦車戦の状況、両軍の投入した戦車の性能等を分析検討した結果であった。これにより陸軍の戦車開発は、従来の歩兵直協の重視と戦車戦へのある程度の対応から、明確に戦車戦を重視した戦車の開発へと転換された。また各種要目数値に大きな変更が加えられた。中戦車に要求される全備重量は従来の20t級から35t級へと上がり、搭載する主砲口径が57mmから75mmへ、最大装甲厚が50mmから75mmへと増強された。

この最大装甲75mmの由来は、独ソ戦の情報から得たKV重戦車が持つ75mmの前面装甲を参考にしたとも言われ、75mm野砲に耐え、撃破するには88mm砲の水平射撃が必要な数値とされている[3]。(あるいは、ソ連が主用していた76mm級対戦車砲を500mで耐えるものとも言われる[4]。)

1943年6月30日の軍需審議会幹事会での発言内容においては、転換の理由を、新規に開発されたドイツ・ソ連戦車の装甲と火力の目覚ましい強化にあると述べている。従来の陸軍の戦車開発は大量生産に適した観点から研究方針が決められていたが、情勢への対応として、質を絶対視した研究方針へと改正した。戦車砲の最大限度は技術力の限度を考慮して75mmと決定され、火力は従来の研究により射距離1,000mで80mmを射貫可能と報告された。装甲の限度は敏捷性を考慮した上で最大限を要求し、75mm厚が限度であるとされた。行動半径はまずガソリンエンジンの搭載を前提とし、20kmで8時間行動可能であれば可であると構想された。

(この変更の前年である昭和17年10月ごろには、旋回砲塔に搭載可能な火砲の口径は平射用は75mm、曲射用なら105mm級までとし、それ以上の物を旋回砲塔式に搭載する場合、大量生産に適さない特殊なものになるという意見が出されていた[5]。)

なお、同日の軍需審議会では新鋭のソ連重戦車に対しては75mm砲では攻撃力が不足していたため、その対策として、大口径105mm戦車砲(試製十糎戦車砲(長))を旋回砲塔式ではなく固定式に搭載した試製新砲戦車(甲) ホリホリ車)および、105mm対戦車砲(試製十糎対戦車砲)搭載の試製十糎対戦車自走砲 カトカト車)(対戦車自走砲)の開発も計画されている。チリ車はホリ車・カト車とともに対新鋭戦車の火力戦の中核となるべき存在であった。

設計・製作は第4陸軍技術研究所ほか三菱重工業東京機器製作所が担当した。1943年8月19日、三菱東京機器製作所において会議が行われ、チリ車開発に関し細部の討論が行われた。内容はV型12気筒ガソリンエンジンの採用、エンジンの艤装、整備方法、変速機、操向装置、緩衝機構の型式等である。35tの大重量を動かすため、変速・操向装置に関して意見が集中した。8月28日には4技研で車体構成、半自動装填装置、エンジンの整備方法、変速操向機の確実性、懸架装置と履帯について討論が行われた。9月23日、三菱東京機器製作所でモックアップの模型を用いて討論が行われた。ここでは第一案と第二案が提示された。第一案は約1年で実現できる現実的な内容であった。

第一案の諸元[1]は、全備重量34.8トン(自重29.8トン)、全長6.9m(車体長)、全幅3.12m、全高2.97m。車体前面及び砲塔前面装甲75ミリ、前方斜面部50ミリ、側面35ミリ、上面20ミリ。BMW600馬力水冷ガソリン機関搭載、常用速度40km/h。75ミリ56口径戦車砲1門、37mm戦車砲1門、機銃3挺。車載無線機乙、丙(または甲、乙)であった。第一案の砲塔は後の試作車の砲塔よりも小型であり、後の三式中戦車の砲塔と類似した形状(三式中戦車の砲塔設計の際には、この第一案の設計を流用したともされる。)となっていた。

第二案は従来の欠点の改良、独ソ戦車からの技術の取り入れ、戦訓の活用、大量生産の容易化等を狙った斬新なものとされた。また細部において様々な検討内容が提案された。なお、ファインモールド社長であり、日本軍戦車研究家である鈴木邦宏は、この後のチリ車の試作及び竣工試験に関する資料は発見されず不明瞭としている。

1944年(昭和19年)4月25日の段階で大阪陸軍造兵廠に対し、試製七糎半戦車砲の発注予告が行われた。9月末に4輛分、10月に1輛分である。チリ車の量産予定は1945年(昭和20年)以降とされた。開発担当者の回想によれば、1945年3月19日にチリ車の供覧が行われ、また4技研の資料では同月に富士裾野で走行・発射試験が行われたとされる。

チリ車は1945年3月に完成予定だったが、車体と砲塔がほぼ完成した状態で終戦となった。新鋭中戦車の量産計画は四式中戦車 チトチト車)に集中し、同年3月29日の整備予定によれば、チリ車量産の予定はなく、主砲の生産も行われなかった。本来、長砲身57mm戦車砲搭載予定のチト車が1944年4月に長砲身75mm砲を搭載するよう開発計画が変更され、本命に格上げされたため、チリ車の軍需動員計画上に挙げられた整備数は、昭和19年度に5輌、昭和20年度に0輌と量産は断念した形になっている。1946年(昭和21年)中の量産予定も無く、第二次大戦中のチリ車の製作は試作1輌のみで終了した。

戦後、本車に興味を示したアメリカ軍により接収され、船でメリーランド州アバディーン性能試験場(1952年10月4日に撮影された、チトなど他の日本軍車両とともに並んでいる映像が残されているので、アバディーンに輸送されたのは確実である)[6][出典無効] へ輸送され、その後スクラップにされたものと思われる[独自研究?]

  • [1] - 「ORD. TECH. INTEL.」と書かれた、五式中戦車チリの車体前面。
  • [2] - 「EXP. MODEL HEAVY 45 TONS」と書かれた、五式中戦車チリの車体左側面。

  1. ^ a b c d e f ファインモールド社 「FM28 五式中戦車 実車解説」(協力:国本康文)の記述による.
  2. ^ a b 『機甲入門』 p571.
  3. ^ 『帝国陸軍 戦車と砲戦車』学習研究社、67頁。
  4. ^ 佐山二郎『機甲入門』光人社NF文庫、508頁、509頁。
  5. ^ 『帝国陸軍 戦車と砲戦車』学習研究社、110頁
  6. ^ https://www.youtube.com/watch?v=4mkS8EodQbA
  7. ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」p367。
  8. ^ a b 白井明雄 『日本陸軍「戦訓」の研究』 94頁、107頁
  9. ^ 陸戦学会 「近代戦争史概説 資料集」 p93。野戦砲兵学校に於て1回試射、細部不明。徹甲弾の弾種は記載されず不明。射撃対象の防弾鋼板は、陸軍の他の対戦車火砲の試験資料の表記に従えば、「1種」は第一種防弾鋼板、「2種」は第二種防弾鋼板のことを指すと思われる。また、「近代戦争史概説 資料集」 p92の別資料の記述から、「1種」は弾頭に被帽のある試製APCであり、「2種」は通常弾頭のAPであるとして、「1種・2種」は徹甲弾の弾種を指す、とする推測もある。
  10. ^ 『重速射砲敎育ノ參考』、近代デジタルライブラリー。書誌ID:000000675992。
  11. ^ 『対戦車戦闘の参考(戦車関係)補遺』、アジア歴史資料センター。Ref:C14060869100。
  12. ^ 佐山二郎『日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他』 546頁
  13. ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 高射砲」266頁
  14. ^ 砲と機関銃の双連となっているのは一〇〇式三十七粍戦車砲も同様である。
  15. ^ US Naval Technical Mission to Japan - Japanese Navy Diesel Engines - INDEX No. S-42 - December 1945, p34






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