中核自衛隊 中核自衛隊の概要

中核自衛隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 17:28 UTC 版)

沿革

日本共産党の武装革命路線

朝鮮戦争中(1950年1953年)の1951年昭和26年)、中国共産党の指導により、日本共産党は第5回全国協議会で武装闘争暴力革命)方針を決定した[6]

コミンフォルムによる指図

1950年1月6日コミンフォルム(共産党国際情報局)の機関誌恒久平和のために人民民主主義のために!』に「日本の情勢について」が発表され、野坂参三平和革命論が批判された[7]。野坂参三はこの批判を受け入れ修正する一方、日本共産党の軍事方針・武装闘争路線をすすめるようになった[7]。また同年1月12日に日本共産党は『「日本の情勢について」に関する所感』を発表する。1950年5月30日人民広場事件で共産党デモ隊と占領軍が衝突すると、6月6日に日本共産党幹部が公職追放となり[8]、同年7月には9人の日本共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(レッドパージ)。徳田球一らは所感派と称して地下活動を開始し、同1950年10月、所感派指導部発行(編集責任は伊藤律)の『平和と独立』(10月7日号)・『内外評論』(10月12日特別号)誌で「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ」を発表、国会は「帝国主義の独裁を民主主義の偽装によって人民の目をゴマかすための金のかかった道具にすぎない」「決死的な人民武装勢力の闘争なしには」人民政府は樹立されないとして武装闘争、暴力革命を訴えた[9]

中国共産党による日本共産党への指令

当時、朝鮮戦争中であった中国共産党の劉少奇は「日本革命は武装革命である。武装闘争を準備せよ」と指揮した[6]。日本共産党は中核自衛隊、山村工作隊といった非合法武装組織を組織、火炎瓶の作成パンフレットを作成した[6]

四全協の軍事方針

1951年昭和26年)2月23日の第4回全国協議会(四全協)で「軍事方針」が提起され、「敵の軍事基地の拠点の麻痺・粉砕」「軍事基地、軍需生産、輸送における多種多様な抵抗闘争」「意識的な中核自衛隊の結集」「自衛闘争の中からつくりだされる遊撃隊」「警察予備隊に対する工作」「警察に対する工作」などが発表され、地下軍事組織は「Y」と呼ばれた[5][10]

米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、自衛闘争を発展させ、その中から遊撃隊をつくり出し、その発展を指導しなければならない。労働者階級は小部隊による遊撃隊を組織し、敵勢力の武装勢力を分散・撹乱・襲撃しなければならない。

この遊撃隊は、拠点工場や経営と統合し、農山漁村の遊撃根拠地はつねに大都市、大工場と結合し、労働者階級の指導のもとに発展しなければならない。遊撃隊は自らを守り、敵に対して発展してゆくことのできる根拠地をもたなければならない。遊撃隊の根拠地は第一は地域闘争の中心である大経営であり、つづいては山地・山村地帯である。これらの地域は、数百年前から、農村社会を形作ってきたところであり、革命的な農民運動の歴史さえもっている。その生活は幾重にもはりめぐらされた封建的な圧迫、搾取、容赦ない税金、供出、さらに増大する失業によって、ニ~三年で部落全体が滅亡するところさえ少なくはない。農民は全く滅亡か、革命かに直面している。
これらの山地・山村の根拠地に対しては、大経営の労働者が山村地帯の革命工作を行い、その根拠地をつくらなければならない。
例えば、京浜、阪神、北九州、中京、空知、札幌とその背後には、これらの根拠地帯を作ることが絶対に必要である。
遊撃隊は、反米救国の民族民主統一戦線発展の武器であり、人民解放軍への発展をめざして行われる。

— 日本共産党第4回全国協議会「軍事方針」、1951年(昭和26年)2月、[11]

1951年2月ガリ版のパンフレット『球根栽培法』第31号に「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない[12]」が掲載[13]

クンチェボ会議

1951年8月、ヨシフ・スターリンコミンフォルムは2月の四全協の「分派主義者に関する決議」を支持、宮本顕治らを批判した[14]モスクワ郊外のスターリン別荘等でのクンチェボ会議において徳田球一、野坂参三、西沢隆二袴田里見ゲオルギー・マレンコフヴャチェスラフ・モロトフラヴレンチー・ベリヤ、中国共産党の王稼祥らは日本における武装革命方針を作成し、これが五全協において51年綱領として日本共産党から発表された[15]

1951年10月3日付けの「球根栽培法」でも、なぜ共産党に軍事組織が必要かが説明された[16]

五全協の軍事方針

1951年(昭和26年)10月16から17日にかけて第5回全国協議会(五全協)が開かれ、「51年綱領」が無修正で採択され、軍事方針も発表された[5][17]。武装綱領と呼ばれた「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」では、日本民族の独立を第一義とした「民族解放民主革命」を理想とし、「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの」として「中核自衛隊」が唱えられた[2]

軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。 — 日本共産党第5回全国協議会「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」、1951年(昭和26年)10月16~17日、[2]

武器・兵器

1951年10月のガリ版『新しいビタミン療法』では第一次世界大戦ドイツ軍化学兵器として使用した毒ガスの臭化キシロールの製法が紹介され、また同パンフレット「栄養分析表」では時限爆弾、ラムネ弾、火炎瓶、タイヤパンク器、速燃紙の製造法、入手方法などが書かれた[18]。また同時期の「理化学辞典」と題された書物(発行日不明)では、催涙弾、火炎弾、黒色火薬塩素酸加里爆薬ピクリンサン爆薬雷コウ(雷酸水銀)などの製造法が紹介された[19]


  1. ^ 1951年昭和26年)10月16・17日の第5回全国協議会「51年綱領」「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」
  2. ^ a b c 兵本 2008, pp. 140–142
  3. ^ a b 警察庁「警備警察50年」「第二章 暴力革命の方針を堅持する日本共産党」『焦点』第269号、平成16年(2004年
  4. ^ 『運動史研究4特集・五〇年問題―党史の空白を埋める』p53-68,(運動史研究会編,三一書房.1979年)
  5. ^ a b c d e 大窪敏三著『まっ直ぐ』南風社、1999年、pp. 201-221。第3章「占領下の共産党軍事委員長」第4節「地下軍事組織“Y”」
  6. ^ a b c d e f g h i 森田実 (2013)
  7. ^ a b 兵本 2008, pp. 132–133
  8. ^ 兵本 2008, p. 115
  9. ^ 兵本 2008, pp. 133, 139–140
  10. ^ 兵本 2008, p. 135
  11. ^ 兵本 2008, pp. 218–219.
  12. ^ 『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』日本共産党非合法軍事委員会、1951年10月3日。 
  13. ^ 長谷川浩・由井誓「内側からみた日共’50年代武装闘争」朝日ジャーナル1976年1月30日号(『由井誓遺稿・回想』由井誓追悼集刊行会、1987年、pp. 43-57所収)
  14. ^ 兵本 2008, pp. 119–120
  15. ^ 兵本 2008, pp. 123–124
  16. ^ 兵本 2008, pp. 150–151
  17. ^ 兵本 2008, p. 137
  18. ^ 兵本 2008, pp. 151–152
  19. ^ 兵本 2008, p. 152
  20. ^ 兵本 2008, pp. 143–145
  21. ^ 『由井誓遺稿・回想』由井誓追悼集刊行会、1987年、pp. 43-57。朝日ジャーナル1976年1月30日号。
  22. ^ 高史明『闇を喰む』角川文庫、2004年


「中核自衛隊」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中核自衛隊」の関連用語

中核自衛隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中核自衛隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中核自衛隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS