中川俊思 中川俊思の概要

中川俊思

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 01:49 UTC 版)

中川 俊思
ながかわ しゅんじ
生年月日 1903年1月20日
出生地 日本 広島県竹原市
没年月日 (1973-11-30) 1973年11月30日(70歳没)
出身校 中央大学
所属政党日本農民党→)
民主自由党→)
自由党→)
分党派自由党→)
(自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 法学士
親族 娘婿・中川秀直
孫・中川俊直

選挙区 広島県第2区
当選回数 7回
在任期間 1953年4月20日 - 1972年11月13日

衆議院議員
選挙区 広島県第2区
当選回数 1回
在任期間 1949年1月24日 - 1952年8月28日
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来歴・人物

広島県賀茂郡荘野村(現竹原市[1])出身。堀川市助の三男に生まれ、禎助の養子となる[2]

1923年(大正12年)中央大学法学部中退[1]中国新聞國民新聞記者を経て[1]1949年第24回衆議院議員総選挙吉田茂率いる民主自由党公認で広島2区から立候補し初当選[1]、通算8回当選[1](当選同期に池田勇人佐藤栄作岡崎勝男前尾繁三郎橋本龍伍麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司床次徳二有田喜一など)。保守合同後は自民党に参加する。この間衆院商工、農林水産、決算各委員長、衆院海外同胞引揚および遺家族援護に関する特別委員長、厚生通産政務次官などを歴任した[1]

趣味は読書、ゴルフ宗教仏教。住所は東京都新宿区東五軒町広島県豊田郡豊栄町[2]

1972年第33回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退。1973年11月30日死去。享年70。地盤は娘婿の中川秀直が引き継いだ。

1959年3月6日第31回国会商工委員会において、当時通商産業政務次官であった中川俊思は、突然歯痛のために国会に連絡をせずに銀座の歯科医院に行き、委員会を流会させたというエピソードを持つ[3]

系譜

中川家 
     (佐藤)
佐藤胖━━━中川秀直
       ┃
       ┣━━━━━中川俊直         
       ┃        
     ┏佳津子
     ┃
中川俊思━╋女
     ┃
     ┗男

脚注


  1. ^ a b c d e f g h i 『政治家人名事典』368頁。
  2. ^ a b 第廿一版 人事興信録 』より
  3. ^ 国会会議録(第31回国会商工委員会第15号 昭和34年3月5日 https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103114461X01519590305


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