三遊亭圓遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 09:52 UTC 版)
4代目
四代目 | |
本名 | |
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生年月日 | 1902年2月12日 |
没年月日 | 1984年1月9日(81歳没) |
出身地 | 日本・東京都中央区 |
師匠 | 六代目雷門助六 二代目桂小文治 |
弟子 | 四代目三遊亭小圓遊 八代目都家歌六 五代目三遊亭遊朝 五代目三遊亭圓遊 三遊亭金遊 三遊亭笑遊 |
名跡 | 1. 雷門音助 (1922年 - 1924年) 2. 雷門おこし (1924年 - 1926年) 3. 六代目都家歌六 (1926年 - 1930年) 4. 柳家三太郎 (1930年 - 1943年) 5. 初代桂伸治 (1943年 - 1946年) 6. 四代目三遊亭圓遊 (1946年 - 1984年) |
出囃子 | さつまさ |
活動期間 | 落語家として 1922年 - 1930年 1943年 - 1984年 幇間として 1930年 - 1943年 |
所属 | 日本芸術協会→落語芸術協会 |
四代目 三遊亭 圓遊(明治35年(1902年)2月12日 - 昭和59年(1984年)1月9日)は東京都中央区京橋越前堀出身の落語家である。生前は落語芸術協会所属。本名∶加藤 勇。出囃子∶『さつまさ』。
来歴・人物
日本橋箱崎の尋常小学校を卒業後、浅草の下駄屋に奉公に出た。その後下駄の行商、陸軍糧秣本廠の臨時工などで働く。
大正11年(1922年)11月に六代目雷門助六に入門。雷門音助となる。大正13年(1924年)春ころに二ツ目に昇進。おこしと改名。大正15年(1926年)5月、六代目都家歌六を襲名し真打に昇進。
その後昭和金融恐慌による経済不況もあって、昭和5年(1930年)ころに柳家三太郎として品川区西小山で幇間に出る。その後戦争により花柳界が禁止される。
昭和18年(1943年)に二代目桂小文治の門下で初代桂伸治として落語界に復帰。戦後、昭和21年(1946年)に四代目三遊亭圓遊を襲名。落語芸術協会の大看板として、またTBSの専属落語家として活躍した。
芸風はあくまでも本寸法でありながら、聴衆に大御所風の威圧感を与えない軽快な語り口と独特の艶を帯びたフラで人気を博した。楽屋では同輩、後輩の誰かれとなく語りかけ、賑やかに笑わせていた。笑わされ過ぎて高座に上がれなくなった者もいたという。古き良き江戸の「粋」の精神を体現するかのような存在であった。
得意ネタは『野ざらし』『堀の内』『幇間腹』『味噌蔵』など。
昭和55年(1980年)10月5日に愛弟子の四代目三遊亭小圓遊に先立たれるという不幸に見舞われ、その悲しみから高座からも遠のき、引退同然のまま昭和59年(1984年)1月9日に亡くなった。81歳没。
弟子
移籍
破門
- ^ 矢野誠一の『文人たちの秘密』には夏目漱石がパントマイムを見て1901年1月の日記に「滑稽ハ日本ノ圓遊ニ似タル所アリ」と「ステテコ踊り」をしのんでいる(朝日新聞2014年10月11日)。
- ^ “日本の現代戯曲データベース「夏の盛りの蝉のように」(吉永仁郎)”. 国際交流基金. 2018年7月2日閲覧。
- ^ “劇団民藝とは「劇団民藝上演年表」”. 劇団民藝. 2018年7月2日閲覧。
- ^ “風間杜夫ステージリスト”. 風間杜夫非公認ホームページ「風の杜」. 2018年7月2日閲覧。
- ^ “ala Collectionシリーズvol.8「すててこてこてこ」”. 可児市文化創造センター. 2018年7月2日閲覧。
- ^ 加藤武の急死のため代演
- ^ a b ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』131ページ
固有名詞の分類
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