三木武夫
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人物と評価
三木は極めて毀誉褒貶が激しい政治家であり、評価が定まっていない、ないしは評価の難しい政治家とされる[688][689]。自由民主党総裁、首相まで務めた保守政治家でありながら、いわゆる進歩的な政治家、学者、ジャーナリストからの評価が高く、その一方で保守陣営からの評価が低いとする分析もあるが[690]、そのような二分論では上手く整理できないとする意見もある[691]。
政治理念、政治姿勢について
三木の政治姿勢の特徴として、初当選以来晩年に至るまで一貫して金権政治の打破、政治浄化を訴え続け、金儲けではなく理想の追求こそが政治家の仕事であると唱え続けていたことが挙げられる。三木のこのような姿勢は、利権や汚職まみれであると見なされていた多くの自民党議員とは異なり、国民から清潔な政治家とされることに繋がり、自民党に批判的な人々からも支持を集めることに成功した[692]。三木の政治姿勢を示す言葉として、「議会の子」、「クリーン三木」があるが、議会の子は1970年代前半、クリーン三木は1974年(昭和49年)以降に用いられるようになったことが確認されており、田中金脈問題やロッキード事件によって政治とカネの問題がクローズアップされる中、金権政治に対抗する三木にふさわしいフレーズとして用いられるようになったと考えられる[693]。
その一方で、三木は戦後小会派、そして保守合同後は自民党の小派閥に属しながら、多数派間にある対立を巧みに突き、したたかに政治的影響力を保持し続ける権謀術数に長けた面も指摘できる。社会党の水谷長三郎、または吉田茂が三木を評した言葉とされる「バルカン政治家」という言葉は、こうした三木の一面を表現したフレーズである。しかし三木はこの自らの政治姿勢を揶揄した「バルカン政治家」という言葉をも、「私はこれを汚名とは思っていない、むしろ理想を持ったバルカン政治家でありたい」と言い、少数派を率いながら理想に向かって邁進するという自己イメージに取り込んでしまう[694][695]。
政治学者の北岡伸一は、このような三木の政治姿勢を、何か積極的な目標に向かって進むものではなく、行き過ぎにブレーキをかける政策を取る政治家であり、アンチテーゼはあってもテーゼや方法論に欠け、また強力な政治力を振るったり強引な政治手法を取ることもなかったと評し、更に政治資金規正法改正、独禁法改正などの三木の目玉政策について批判している[696]。一方、やはり政治学者の若月秀和は、三木にとって政治は自らの理想を語り、追求していくことが全てであり、政治浄化に全力を傾注した結果、経済や外交といった国政の最重要課題がなおざりにされ、自民党の団結も阻害され、国政の停滞を招いたと批判している[697]。なお三木の政治的治績が十分なものであるとはいえないとの評価は、三木の政治姿勢を評価する人たちにも見られ、内田健三は、政治腐敗が起きるたびに三木の政治理念は想起され、政治の原点として警鐘を鳴らし続けていると、三木の政治姿勢を高く評価した上で、党内基盤が脆弱であった三木にとって一政権一功業は望むべくも無かったとした[698]。
小西徳應は、三木自身は現在の課題に対処しつつ、明日のことをしっかりと見据えた対策を取るのが政治であると考えていたとする。このような三木にとって、実現すべき理想を掲げ続ける強靭さとともに、理想とはかけ離れた社会の中でも政治家を続け、そして少しでも理想に近づけるために仲間や賛同者を募るための柔軟性を併せ持つ必要が生じ、理想と現実とが乖離している社会の中では、結果として矛盾だらけかついい加減でつかみどころが無い人物とも、信念を持った優れた政治家とも見られるようになったと分析する。そして三木にとって、妥協とはあくまで自らの理想に少しでも近づけるために行うものであり、いわゆる駆け引きとは根本的に異なるとする。このような三木の政治家像は、日本で一般的な調整型や妥協を行う政治家とは根本的に異なり、これが三木の評価を更に難しくしていると指摘している[699]。新川敏光もまた、三木は政治家として理想主義者であり、理想を実現するための力、すなわち権力を求めるのはあくまで理想追求のためであって、そのための妥協、策略であったとした。このような三木は調整、管理タイプの指導者ではなく、理想に燃える目的追求型の政治家であったとする[700]。三木が政治において理想の追求を第一としたという評価は、三木に批判的な政治学者にも見られ、先述の若月は、三木にとって政治は自らの理想を語り、追求していくことが全てであるとし[697]、三木のことを「何をしたわけでもない」と評した御厨貴もまた[701]、頑固で自分流を貫き、いつまでも理想を追うと評している[578]。
小西以外にも、岡野加穂留、苅部直が、三木の日本の一般的な政治家と異なる面について注目している。岡野は三木を政治の決定過程において一種の緊張感、動のきわめてダイナミックな緊張状態を創り出し、その上で日本政界の近代化、政治そのものの近代化を目指し、状況の転換を図る政治家とした。三木のこのような特徴はアメリカ留学の中で培われたものとも考えられ、日本のなれあい社会、持ちつ持たれつ社会を色濃く反映した日本政界とは異質の、西欧型の論理に基づく政治家であるとも言え、戦後日本の政治過程では極めて異質な政治的体質の持ち主であったと評価した。そのため三木は現状打破の前向きの緊張状態を生み出す政治家として、拒絶反応を受けることになったと分析した[702]。苅部は三木が福沢諭吉を尊敬し、付和雷同を廃して独立自尊の精神を人間の理想としていたことに着目し、三木の独立の姿勢が日本の政治風土の中では、崇高な孤独とならざるを得なかったと評している[703]。
そして三木の政治理念として、1960年(昭和35年)の安保改定闘争後の保守政治の改革方法を巡って現れた、岸信介の系統である福田赳夫に代表される権威派、池田勇人やそのブレーンであった大平正芳や宮沢喜一に代表される経済成長優先派と並んで、石橋湛山の系列を引き継ぐ福祉国家派であったとする見方もある。三木らの主張は軍備を縮小し、その分を経済成長や途上国援助に回すべきとした。更に経済成長によって得られた財は福祉や教育に振り向け、中国、ソ連などとの友好関係の確立を通じて日本の安全保障を図るべきとも主張した。三木ら福祉国家派は、労働運動に組織されている労働者たちをこのような政策を実行に移すことによって自陣に引き込めると考えたのである。この見方によれば、三木は自らの政権で福祉国家的な政策転換を試みたが自民党内の主流派からの拒絶反応を受け、挫折したとする[704]。
政治手法について
三木の政治手法の特徴としては、徹底的に時間をかけて相手を説得する方法を取ったことが挙げられる。三木はしばしば相手の腕や膝、太腿をつかみ、肩をゆすって熱心に説得を繰り返した。成田知巳社会党委員長は三木に説得されている間、ずっと太腿をつかまれていたため、足が痺れてしまったとの逸話も残っている[613][705]。また学生時代を通じて弁論で鳴らした三木は、演説にも力を入れた。三木と長年政治活動を共にした井出一太郎は、三木の文章はセンテンスが短く簡潔であり、演説では繰り返しを多用し、国会を「こっくわい」、議会を「ぎくわい」と発音する徳島訛りも時々入るが、これも演説内のアクセントとなっていると見ていた[注釈 25]。また自分自身の言葉で語りかけており、これがいわゆる「三木節」と呼ばれるゆえんであるとした。そして三木は演説など政治的発話を行うために、常にメモを作成していた[707]。
三木は極めて言論を重んじており、一般聴衆などに向けての政治的発話では高邁さを、そして政治的会合や一対一での対話の席などでは相手を説得すべく粘っこさを見せた。もともと学生時代から弁論に長けていた三木であったが、言論が封じられる中で戦前の政党、議会政治が自壊していく姿を目の当たりにした三木は、戦前の反省からよりいっそう言論を重んじ、言葉を武器にした活動を見せるようになったと考えられている[708]。また新川敏光は、言論で政治家となった三木にとって言論の力に対する信頼感が根底にあり、三木が理想主義者と呼ばれる真の理由は、三木の語った理想の中にではなく、理想を語る言論そのものへの信頼にあるとした[709]。
三木政権時代、政調会長、総務会長を歴任した松野頼三は、三木の政治手法は独裁からほど遠く、総裁として意見を押し付けることは全くなかったと回想している[710]。三木が強引な政治手法を取らなかったことについては、北岡伸一が政治の大きな刷新のためには強力な政治力、強引な決断が時には必要であるが、三木はそのような決断をしたことがないとし[711]、新川敏光もまた、目的追求型指導者としての見通しの欠如と決断力不足を批判している[585]。一方、三木の側近から後に首相になった海部俊樹は、強引なことを行わない三木の政治手法を、民主主義のルールを守るものとして評価している[712]。
協同主義、中道主義と三木
戦前から50年以上に及ぶ三木の政治生活の中で、三木の政治信条の一つとして協同主義(コーポラティズム)が挙げられることが多い。三木の協同主義との出会いははっきりとしない点が多いが、三木の舅である森矗昶と繋がりがあった千石興太郎が大きく係わっていると考えられる。戦前、森コンツェルンは合成肥料製造に乗り出していたが、肥料の販路として千石率いる産業組合が名乗りを上げた。硫安などを製造する窒素工業は、当時としては高度の技術と設備を必要としたため、大資本でなければ手が出せず、製品も三井物産や三菱商事などといった大商社系が独占的に扱っており、新興の森コンツェルンが進出するのは容易ではなかった。しかし森矗昶は、産業組合との連携によって大資本独占に風穴を開けることに成功した。また三木は、徳島県の農村地帯選出の代議士であり、衆議院選挙初出馬時から産業組合の振興を政見に掲げていた[713]。
三木は戦後まもなく発足した日本協同党への参加を、千石興太郎から勧められるが参加しなかった。これは近衛新体制に加担し、東條内閣時には率先して戦争遂行に加担したメンバーが多く含まれる日本協同党への参加を見送ったものと考えられる。三木は1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙後に、協同民主党、国民協同党と、協同主義を標榜した政党に所属し、国民協同党では書記長、そして党首である中央委員長を務めた。国民協同党は民主党の野党派と合同して国民民主党に、そして改進党、日本民主党を経て自由民主党となるが、日本民主党に至ると綱領から協同主義は全く消え去った[714]。政治学者の竹中佳彦は、三木にとって協同主義は中道主義とほぼ同義であり、自己の政治影響力の拡大や政権獲得のための手段として協同主義を利用した側面が強いとする[715]。また小西徳應によれば、三木の協同主義は便宜上のもので、ほとんど評価しない人が多いと指摘している[716]。
その一方で、中曾根康弘、そして三木の妻である睦子らは、三木の信条に協同主義があったとしている。睦子は三木の協同主義は農村部ばかりではなく、都市部の商工業者にも必要であると考えており、例えば戦後の露天商が集まって組合を結成し、それが発展した秋葉原電気街が三木の考えていた協同主義の成果であるとする[717][718][719][720]。
協同主義は政党の結党哲学としての力を失い、戦後まもなく生まれた協同主義政党は消滅した。しかし協同主義から後の市民運動へ繋がっていく流れがあったとの指摘もあり、三木にとっても戦後の混乱期の協同主義活動を通じ、全国各地に地方自治体の首長、地方議員などを中心とした多くの人脈を形成することに繋がった[721][722]。また戦前、アメリカ、ヨーロッパ各国への遊学、そしてアメリカ留学の中で三木が会得したアメリカやイギリスなどの自由主義諸国への共感と左右の全体主義に対する警戒心に加えて、資本主義的な搾取と左翼的な階級主義の双方を否定し、資本主義の枠内で社会的公正を求めるという、協同主義の中から見いだした中道主義を三木は生涯変わらず唱え続けることになる[723][724]。
官僚との関わりについて
三木は決して日本の官僚のことを否定していたわけではなく、日本の官僚機構が国際的に見ても優れたものであることを認めていた。しかし三木が日本の官僚機構を評価していたのは、あくまで行政機関としての役割や機能に関する点であって、自民党など政党が官僚的に運営されることに反発した。三木がなぜ政党が官僚的に動かされることに反発したのかというと、三木が政治家としての道を歩み始めた戦前期、政党政治が没落して官僚超然主義の内閣が続く中で、泥沼の戦争に突入して国民に多大な犠牲をもたらしたことに対する深い反省があった[725]。
政党政治と官僚政治との差について三木は、国民を代表して政治に当たる政党は、国民との血のつながりが絶たれれば生命力を失う反面、官僚は必ずしも国民との直接的な結びつきを必要としないとし、組織の性格が全く異なることを指摘した上で、国民とのつながりが政党の生命であり、国民から政治が遊離すれば政党政治は形ばかりのものになるとした。そして政治が官僚主義的に運用されるようになれば形式主義、権力主義がはびこるようになり、更に官僚政治は目前の問題に対処するいわば受身の政治であるのに対し、政党政治は目先を廃し、問題を本質的に捉え、対処していくものであると主張した。このような考え方を持つ三木は、政党が官僚的に運営されることに反対し、官僚的な政治を進めているとした佐藤栄作の三選、四選に反対し、更に派閥抗争や金権体質は党の官僚化が原因であるとして、三木が党の近代化を訴え続ける理由の一つとなった[724][726]。
このような三木は、主に官僚外のブレーンとの対話を通して政策を立案していった。また三木本人と官僚との関係性も希薄であった。三木政権下、自民党の三木派内に所属する衆参両院議員のうち、高級官僚出身者はわずか3名であった。そして三木が首相時代の1976年(昭和51年)正月、目白の田中邸には多くの高級官僚が年始の挨拶に駆けつけたのに対し、渋谷南平台の三木邸には官僚の姿がほとんど見られなかった[727]。また生粋の政党政治家である三木が自民党内で傍流政治家とされ、官僚出身者が保守本流扱いされていることに対し、政党政治の歴史の中では大隈重信や板垣退助の流れを汲む自らこそが保守本流であり、官僚政治は亜流にすぎないと自負していた[724]。
政治改革について
1937年(昭和12年)に政界浄化を訴えて衆議院議員に初当選した三木は、その3年後に全ての政党が解散し、大政翼賛会が成立した経緯を目の当たりにした。三木は戦前の政党政治破綻の要因は、巷間言われるような軍部の圧力ではなく、政党が腐敗して国民の信頼を失ったことにあると見なしていた。従って三木は政党政治を守るため、清潔な政治の実現が必要であるという固い信念を持つようになった[728][729]。
小西徳應は、三木の政治家としての目標は、目覚めた国民が正統な手続きに則って優れた代表を選び、その国民の代表が政党を組織して安寧な国民生活を送れるような政治を行うことにあり、いわば三木は民主主義の実現という極めてあたりまえのことを主張しており、その目標に向かって終生政治活動を行い続けたとしている[730]。真の政党政治の確立のため、三木にとって政治浄化は不可欠の条件であり、このため終生政治改革を訴え続け、ロッキード事件時には事件の徹底究明を目指し、カネと情による政治、日本的な共同体意識、仲間内意識のようなものに支えられた田中擁護の声との全面対立に陥った[731][732]。
三木のこのような姿勢については、たとえ首相経験者であれ「悪は悪として処断すべき」との断固たる姿勢を貫き、重圧をはねのけて田中を逮捕したことを三木最大の政治上の功績であるとする意見[733]、自民党内多数の反発を押し切ってロッキード事件をうやむやに終わらせなかったことを三木内閣第一の業績に挙げるといった評価する意見がある反面[734]、田中を逮捕にまで追い込んだことが最良のやり方であったのか疑問とする意見[735]、そして政治浄化に傾注した結果、他の国政の重要課題への対処がおろそかになり、国政の停滞を招いたことを批判する意見がある[736]。
交友関係など
三木は戦後まもなく、お互いの家が近かったこともあって南原繁との交流があった。その後南原の弟子にあたる丸山真男とも交流を深め、三木が吉祥寺に住んでいたころはお互い近所同士となったこともあって、安保改定問題などについてしばしば熱心に語り合った。三木と南原、丸山との関係は、政治家とブレーンといった関係ではなく、純粋に親しく思うところを語り合っていたという[737][738]。
三木の妻、睦子によれば、三木の学生時代からの親友は国民協同党以降、政治活動を共にした松本瀧蔵、外交官出身のジャーナリストであった平沢和重、そして福島慎太郎であったという。三木の片腕としてGHQとの交渉を一手に引き受けた松本瀧蔵は1958年(昭和33年)、三木の外遊にはほとんど同行した平沢和重は1977年(昭和52年)に死去するが、三木のアメリカ留学時にロサンゼルス領事館補として赴任していた福島との交流は、アメリカ留学時から三木の晩年まで続き、福島が1987年(昭和62年)に死去した際、すでに病床にあった三木はひどく落胆した[739]。
三木を支えた政治家の同志として代表的な人物は、国民協同党以来、終生三木と政治活動を共にした井出一太郎が挙げられる。また、福田派から三木政権の政調会長、総務会長となった松野頼三は三木の政治姿勢に共鳴し、自民党内から様々な反発を受けた三木政権を最初から最後まで支え続けた。また三木との関係が深かった異色の政治家として石田一松がいる。石田は昼は国会議員として活躍しながら、夜は芸能活動を続けていた。あるときアメリカの友人から贈られた似合わない洋服を三木が無理して着ていたところ、石田が羨ましそうに見ていることに気づき、プレゼントしたというエピソードが残っている[740]。
そして昭和20年代から30年代にかけて三木と政治活動を共にしていた河野金昇の秘書となり、1958年(昭和33年)の河野金昇の急死を経て、1960年(昭和35年)に昭和生まれ初の国会議員となった海部俊樹は、三木を政治の師と仰ぎ、1989年(平成元年)に自民党総裁、首相となった[741][742]。
徳島県政への影響力
影響力の確立と変遷
三木は1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙以降、党の要職や閣僚を歴任するようになり、選挙中にあまり徳島へ戻れなくなってしまった。同選挙の約一ヶ月前には三木の母、タカノが死去し、母の葬儀もそこそこに選挙戦に突入したが、妻の睦子が中心となって選挙区を回り当選する[743][744]。
三木本人が徳島入りが出来なくなると、徳島県政に三木の影響力を強める必要性が増した。しかし1947年(昭和22年)の徳島県知事選(民選第1回)では、国民協同党の同僚同士であった三木と岡田勢一が別の候補を推薦して票が分裂、社会党の阿部五郎が知事に当選した。当時三木も岡田も国民協同党の幹部であり、三木はまだ岡田を抑えるだけの実力は無かったのである。続いて1951年(昭和26年)の選挙では、三木は社会党の蔭山茂人を社会党離党を条件に推薦した、しかし岡田は徳島市長原菊太郎を推薦、再び対立した。原は岡田や秋田大助という三木以外の衆議院議員との関係が深く、更に徳島県内の三木の有力支持者である長尾新九郎との関係も悪く、三木としても知事に推すことはできなかったのである。このときの知事選も票が分裂、自由党推薦の阿部邦一が当選した。結局昭和二十年代、三木は擁立した候補を知事にすることができず、徳島県政への影響力は十分なものとはならなかった[745]。
1955年(昭和30年)の第3回選挙に向けての対応で、2期連続分裂選挙の不手際を犯した三木と岡田はともに自重していた。改進党徳島県支部の候補者選定では1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙で落選した秋田などが候補として挙がっていたが[746]、1954年(昭和29年)4月、前回落選した原が再出馬を表明、改進党徳島県議団は原擁立に流れた。原と遠い三木与吉郎と三木武夫は秋田擁立に動いたが、秋田は自身と近い原との衝突に消極的で、更に県政への転出よりも国政復帰を目指していた。結局原が改進党の知事候補となって、現職の阿部を破った。三木にとっては秋田や岡田と親しい原の知事就任は不本意さの残るものであった[747]。
4年後の1959年(昭和34年)の知事選は、現職の原が無投票で再選された。原は新産業都市の指定などで自民党の有力議員である三木の協力を必要とするようになり、三木にとっても徳島県政に対しての影響力強化のため原との関係強化を図っていた。そのため、1963年(昭和38年)の知事選を迎えるころには原と三木との関係は以前よりも密接なものになっていた[748]。
同年4月の知事選では原が3選を果たしたものの、同年12月に脳出血で倒れ、後継者問題が浮上した。後継候補にまず挙げられたのは三木与吉郎参議院議員と武市一夫副知事であった。1964年(昭和39年)6月に原が公務に復帰したためいったん知事後継問題は沈静化したが、1965年(昭和40年)8月、知事辞職に至る。この間、三木与吉郎は第7回参議院議員通常選挙(1965年7月)で当選しており、知事候補から外れていた。そこで武市が知事後継者として有力となったが、武市は秋田の系列であったため、三木は知事に擁立するつもりはなかった[749]。
三木の意中の人物は衆議院議員の武市恭信であった。武市恭信は貞光町の町長を務めた後、1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙と1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に出馬するもいずれも落選、1961年(昭和36年)に三木が科学技術庁長官に任命された際に秘書官となった後、1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に、三木から資金面と地盤の援助を受け、ようやく衆議院議員初当選を果たしていた。三木は徳島県議の約三分の一を自らの系列議員とし、続いて直系の知事を誕生させることによって県政支配を完成させようともくろみ、出馬に乗り気ではなかった武市恭信を強く説得、知事選出馬にこぎつける。一方の武市一夫は、武市恭信が自民党公認候補と決定した後も原が出馬を勧めたこともあり、出馬の検討を進めていたが、結局当選の見込みが立たないため出馬を断念した[750]。
三木の強引ともいえる武市恭信の知事選擁立に対し、徳島県選出の他の国会議員は反対できなかった。かつて三木と対立した岡田は、1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙に落選して政界から引退していた。三木与吉郎はある程度の力を有していたものの三木の実力に及ばず、紅露みつは三木の直系であった。そして秋田大助、小笠公韶は当落を繰り返していて三木のライバルとはなり得ず、森下元晴は1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で当選したばかりであった。また衆議院議員にとって武市恭信の知事転向は選挙区のライバル減少に繋がり、とりわけ秋田は武市恭信と選挙区の地盤が重なるため、武市恭信の知事転出の利益は大きかったのである。選挙戦では三木武夫自らが選挙対策本部長に就任、現職の通産大臣でありながら徳島入りして武市恭信の応援を行う。10月5日の投票は武市恭信が当選を果たし三木直系の知事が誕生、三木の県政への影響力は全盛期を迎えた[751]。
阿波戦争
以降、徳島県政は三木武夫の天下が続き、県知事となった武市恭信は1969年(昭和44年)、1973年(昭和48年)の知事選でいずれも再選を果たす。しかしやがて、三木の徳島県政支配に対する不満がくすぶりだす。1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙において三期務めた三木与吉郎が引退を表明し、後継として直近の総選挙で落選した小笠公韶を推薦したが、三木武夫直系の久次米健太郎参議院議員が県連会長を務めていた自民党徳島県連は、三木武夫派の県議であった伊東董を公認候補とした。選挙戦は公認を得た伊東と無所属で出馬した小笠がともに出馬、三木武夫は伊東を支援したが、結局小笠が大差で当選を果たした。この時の選挙戦でのしこりが反三木武夫・久次米派を生むことになり、阿波戦争の遠因となった[752][753]。
1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙では久次米が再選を目指し出馬したが、元警察庁長官で、田中内閣の官房副長官を務めていた後藤田正晴も出馬することになった。三木は後藤田に対して全国区からの出馬を勧めたが、後藤田の徳島県選挙区からの出馬の意志は固かった。自民党徳島県連には久次米と後藤田から公認申請が出されたが、結局後藤田が公認され、久次米は無所属で出馬することになり、2期連続で分裂選挙となった。阿波戦争と呼ばれる激しい選挙戦では後藤田陣営に地元警察の動員がなされたとも言われ、三木が警察庁長官に直接警告する事態にまで発展した。田中は3回も徳島入りして後藤田陣営のテコ入れを図ったが、久次米陣営を支援する三木派も国会議員が徳島入りして応援に走り回った。激しい選挙戦の結果、久次米が後藤田を振り切り当選を果たした[754][755][756]。
敗北した後藤田は三木政権下での1976年(昭和51年)12月の第35回衆議院議員総選挙で当選、以後、反三木の動きの中核となる[757]。
徳島県政への影響力低下
同総選挙の敗北の責任を取り三木政権は退陣、それからまもなく、徳島における三木の影響力の低下が見られるようになった。1977年(昭和52年)の知事選で、武市が4選出馬を表明するが、前年に始まった自民党県議団の分裂騒ぎもあって、保守系県議は賛成派と反対派に割れた。県選出国会議員も、三木と久次米は武市支持、後藤田と小笠は不支持、森下元晴は当初中立、後に武市支持となった。また社会党衆議院議員の井上普方は後藤田の甥であり、やはり反武市派となり、公明党の広沢直樹も反武市派であった。このような中、保守系の反武市派県議と革新陣営は共同で県議会に武市知事4選出馬断念勧告決議案を提出、可決され、県政刷新議員連盟を組織する。武市県政批判を強めていた徳島新聞の森田社長も後押しした。同連盟は、三木申三(無所属)を知事候補に共同擁立した。三木申三は、かつて翼賛選挙時に翼協推薦候補となったものの三木武夫に破れ落選した三木熊二の三男であった。
一方、武市は自民党に公認を申請したが、当時の県連会長は反武市派の小笠であり、県連は武市が1974年の参院選で無所属の久次米を応援したことを理由に、公認に難色を示した。武市支持派は県連総務会開催を強行し、公認を決定するに至った。この決定の有効性をめぐってもごたごたが続いたあげく、自民党本部からは武市は公認ではなく自民党の党籍証明を出す妥協案が提示され、最終的に福田赳夫総裁名で徳島県選挙管理員会に政治団体確認書を提出することによって、武市は公認候補とはならなかったものの、知事選で自民党を名乗れることになった。三木武夫は武市を応援したが、知事選は激戦となり、結局わずか約1500票差で武市が4選を果たした。直系の武市がここまで苦しい戦いを強いられたことは、三木の徳島県政への影響力の衰退を象徴していた。そして1979年(昭和54年)の第36回衆議院議員総選挙で、三木は戦後ずっと守ってきていたトップ当選の座を明け渡す[758][759]。
1981年(昭和56年)の知事選で、武市は5選出馬を表明、三木申三もリベンジで出馬する。自民党県連は森下元晴会長の一任で武市に後任を出し、党本部もそれを認めたが、自民党内の反武市派は公然と反発して三木申三への支持を表明し、自民党はまたしても分裂選挙となった。三木申三は前回と同じく、自民党以外の政党にも支持を広めるべく無所属での立候補を選択し、社会党を始めとする各党はなだれを打って三木申三支持を表明した[760]。
三木武夫は武市への支持を続けたが、三木派の県議の中にも、前回の知事選に辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたくらいで、武市に対する多選批判は厳しかった。結局知事選では三木申三が約3万2000票差で武市を破り、三木武夫は直系の知事を失った。直系の知事を失った三木の徳島県政への影響力は衰退の一途を辿った。三木申三知事就任後、徳島県議会では後藤田派の県議が増加し、三木派の県議の中にも三木申三知事に表立って反対しない県議が現れるようになった。1985年(昭和60年)の知事選では、再選を目指す三木申三に対し、三木武夫は自派の人物を対抗して擁立することはなく、三木派の県議の多くは、秋田大助系の山本潤造(徳島市長を辞職)の支援に回ったが、山本を支援しない三木派の県議もおり、三木申三は山本を破って再選を果たす。三木武夫はその3年後の1988年(昭和63年)に死去する[761]。
趣味
三木は政治以外、熱中して何かに取り組むことはほとんど無かったというが[762]、1955年(昭和30年)、三木が運輸大臣を務めていた際に、海上保安庁長官の島居辰次郎から絵を描くことを勧められたことがきっかけで、三木は絵を描くようになった。そして三木が首相を辞めた後は、三木派の国会議員でもともと絵の先生であった野呂恭一、そして野呂の同級生であった画家の松木重雄らと絵を描くようになり、また平山郁夫からも絵の手ほどきを受けた。もっとも不器用な三木は絵を描く時にそこいらじゅうを汚してしまうので、妻の睦子が側にいて手助けをするのが常であったという[763][764]。
また三木は結婚直後から、妻睦子の母である森いぬの所に毎週火曜日通わされ、習字の稽古をさせられた。これは結婚当初、三木のあまりの悪筆を見たいぬが、字があまりにきたないので習いに来るように言いつけたことがきっかけであった。義母のいいつけに対し、三木は最初はタイプライターで字を書くから良いと言っていたものの、タイプライターの字なんか貰っても誰も喜ばないと説得され、結局いぬが存命中は毎週火曜日、習字の稽古を行うことになった。稽古の結果、三木はそれなりの字を書けるようになり、揮毫なども行えるようになった[765]。
注釈
- ^ 三木の生家について、素封家であるとしたもの[5]も散見されるが、明治大学三木武夫研究会による三木の故郷での現地調査を踏まえた研究は、素封家説を明確に否定している[6]。
- ^ 三木が退学処分を受けることになったバザーの不正疑惑に端を発する騒動については、当時の徳島毎日新聞と徳島日日新報とも報道しておらず、新聞記事からは事件の内容について確認できない[15]。
- ^ 中外商時代、は理事長の結城豊太郎の知遇を得たとの文献も見られるが、当時結城は安田財閥の安田保善社に勤めていたが、安田家管理の保善商工教育財団が中外商の経営に乗り出したのは、卒業後である1926年(大正15年)9月以降である。そのため、中外商時代に結城と知り合った可能性は低いとし、本人が述べたという「私は結城先生が係わっておられた学校の卒業生(第二期生)です」との発言は自然であるとされた[18]。
- ^ 三木が欧洲を単身で訪問したのか、長尾と一緒であったのかについて資料によって異なるが、鈴木秀幸は、途中まで長尾と同行していたが欧洲はほぼ三木が一人で回ったとする[32]。
- ^ 「神田の床屋」としている史料もあり[39]。
- ^ 前回選挙時の選挙違反問題などを抱えた高島陣営の弱体化が目立っており、これが三木当選の要因のひとつとなった可能性がある[72]。
- ^ 結婚直後の夏に、徳島の三木の両親のところへ夫婦揃って挨拶には行っている[102]。
- ^ 竹中佳彦は、三木の翼協非推薦理由は反軍的な言動や反時局的な活動をしていたからではなさそうと分析している[113]。
- ^ まだ政治家として駆け出しであった三木が、頭山から直接推薦を受けることが出来たとは考えにくく、頭山と同郷の福岡県出身であり、三木とは日米同志会を通じて親交があった金子堅太郎を通じて推薦を依頼したのではないかと思われる[121]。
- ^ 三木が同郷の内務省警保局長に頼み込み、選挙取り締まりを推薦候補並みにしてもらったとの記録もあることが指摘されているが、当時の警保局長は徳島ではなく愛媛の出身であり、真偽が定かでない[123]。
- ^ 三木の父久吉は1941年(昭和16年)1月24日に没しており、実家は母タカノ一人であった[144]。
- ^ 三木の協同民主党加入は、6月15日[161]とも5月25日[162]ともされる。いずれにしても5月24日の協同民主党成立後の入党である。
- ^ 翼賛選挙時には逆に米国留学経験のある三木は米国のスパイであると中傷された[181]。
- ^ 三木も造船疑獄時に収賄の嫌疑がかけられたという[237]。
- ^ 派閥の領袖として自民党の実力者の一人でありながら、派閥解消、政治資金の透明化を趣旨とした自民党の近代化を訴え続けることは矛盾した行動であるが、竹内桂はこれは理想を抱きながらも現実世界への対処をおこたらない三木の政治スタイルの特徴の一つであるとしている[268]。
- ^ 三木答申後、派閥は政策集団の看板を掲げざるを得なくなり、総裁選立候補は何名かの推薦人による推薦が必要となり、党に人事局や国民運動本部が設置されるなど、一定の改善が見られた[290]。
- ^ 海部俊樹は佐藤から三木に対し、禅譲をほのめかされていたことを知らなかったとのことで、三木はこの話をごく一部の側近のみにしか伝えていなかったとことがわかる[333]。
- ^ 三木と周との会談メモは家族に見せることも無く、常に身の回りに置いていたという[363][364]。
- ^ 中曽根の田中支持決定の背景には巨額の資金が流れたとの説がある[367][368]。
- ^ 指名の背後には佐藤の働きかけがあったとする資料もある[426][427]。
- ^ ジスカールデスタン大統領はフランス、イギリス、西ドイツ、アメリカの4カ国でのサミット開催を考えていたが、アメリカの要請で日本が加わった[526]。
- ^ 三木はもっと早い7月初旬の段階で田中逮捕の予定について把握していたとする説がある[566]。
- ^ 後に小泉純一郎は郵政解散時に、この三木の反対派閣僚罷免による解散検討を、先例として徹底的に調べたとする[578]。
- ^ 田中は三木の政治改革と並んで大平政権、中曽根政権での消費税問題、鈴木内閣、中曽根内閣の行財政改革などを挙げている[619]。
- ^ 海部俊樹は、「海部君」を「くわいふくん」、「国会の開会」を「こっくわいのくわいくわい」と発音する三木の徳島訛りがなければ、もっと三木の演説は国民に浸透したのではないかと語っている[706]。
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