ミネソタ・バイキングス
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概要
1960年にエクスパンションチームとして創設され、翌1961年にNFLに加盟した。チーム名はミネソタのスカンディナヴィア系アメリカ人の文化を考慮し、古代スカンディナヴィアのヴァイキングにちなんで名付けられた。
バイキングスは、未だスーパーボウルで優勝していないNFLチームの中で、レギュラーシーズンの勝率と合計勝率が最も高く、さらにプレーオフ進出回数、ディビジョン優勝回数、スーパーボウル出場回数(バッファロー・ビルズと並び4敗)が最も多いチームである。 また、カンファレンスチャンピオンシップへの出場回数が最も多く、1970年代から10年ごとにカンファレンスチャンピオンシップに出場している3チーム(ピッツバーグ・スティーラーズ、ロサンゼルス・ラムズ)のうちの一つである。なお、30回のプレーオフ敗退はNFL史上最多である。
歴史
1960年代
元々は、NFLに対抗して1959年に設立されたプロフットボールリーグであるアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)のフランチャイズに名乗りを上げていたオーナーグループに対して、NFLからミネアポリスにフランチャイズを設けるとの誘いがあり、AFLから鞍替えする形でNFL14番目のフランチャイズとして1961年からリーグに参加することが決まった[1]。ちなみに、ミネアポリスの代わりにAFLに加入したのがオークランド・レイダースである。
1960年9月27日にはバイキングスという愛称が決定されている。愛称の由来はミネソタ州がスカンジナビア系アメリカ人文化の中心となったためである[2]。初年度のシーズンチケットは26000枚売れて収容人数40800人のメトロポリタン・スタジアムは平均34586人の入場者を集めたため、その後47900人が収容できるようになった[1]。
1961年のドラフトでランニングバックのトミー・メイソン、クォーターバックのフラン・ターケントンなどを獲得した。1961年の開幕戦でターケントンは4本のタッチダウンパス、ランプレイで1タッチダウンをあげてシカゴ・ベアーズを37-13で下す番狂わせを演じた[1]。しかし第2週から7連敗を喫して3勝11敗で終わった[2]。
1967年3月7日、ターケントンはニューヨーク・ジャイアンツに1967年のドラフト1巡、2巡、1968年の1巡、1969年の2巡指名権と引換えにトレードされた。この時得た指名権でチームはクリントン・ジョーンズ(1967年ドラフト1巡目全体2位指名)、ボブ・グリム、ロン・ヤーリー(1968年ドラフト1巡目全体1位指名)、エド・ホワイトを獲得した[3]。3月10日には1966年シーズン終了後に解雇されていたノーム・バン・ブルックリンに代わりカナディアン・フットボール・リーグ(CFL)で10年間のうち4度優勝した実績のあるバド・グラントがヘッドコーチに就任した。1960年代終わりにバイキングスはアラン・ペイジ、カール・エラー、ゲーリー・ラーセン、ジム・マーシャルらに率いられたパープル・ピープル・イーターズと呼ばれる強力なディフェンスを築いた[4]。
1968年にNFL中地区で初優勝を果たしプレーオフに初出場した[2]。
1969年にはNFLトップとなる12勝2敗の成績を残し[3]1970年1月4日のNFLチャンピオンシップゲームではクリーブランド・ブラウンズを27-7で破ったが第4回スーパーボウルでカンザスシティ・チーフスに7-23で敗れた。
1970年代
1970年、1971年もチームはディフェンス力を武器にプレーオフに連続出場した。アラン・ペイジは1971年にAP通信よりシーズンMVPに選ばれた。1972年にチームはノーム・スニード、ボブ・グリム、ビンス・クレメンツ、1972、1973年のドラフト1巡目指名権と引換えにQBフラン・ターケントンをジャイアンツから呼び戻した[3]。
1972年、ワイドレシーバーとしてジョン・ギリアムが加入したことでバイキングスのパスオフェンスは改善されたがラン攻撃が振るわず7勝7敗に終わった。このため1973年ドラフト1巡目ではRBチャック・フォアマンを獲得した。
1973年は開幕からの9連勝を果たし12勝2敗でシーズンを終えた[2]。2度目の出場となったテキサス州ヒューストンで行われた第8回スーパーボウルではマイアミ・ドルフィンズに7-24で敗れた[3]。
1974年にはNFCトップタイの10勝4敗で2年連続地区優勝を果たした。プレーオフでは地元の寒冷な気候も味方につけてセントルイス・カージナルスに30-14、ロサンゼルス・ラムズを14-10で破り第9回スーパーボウルに出場したがピッツバーグ・スティーラーズに6-16で敗れた[2][3]。1975年はターケントン、フォアマンによるオフェンスを中心に開幕から10連勝して早々に地区優勝を果たしたがダラス・カウボーイズとのプレーオフでロジャー・ストーバックからドリュー・ピアソンへのヘイルメアリーパスが通り14-17で敗れた。メトロポリタン・スタジアムに集まった地元の観衆の多くはこのプレイでピアソンのバイキングスのコーナーバックネイト・ライトに対するパス・インターウェアランスがあったと信じたが反則のコールがされることはなかった。観客席から審判に向けてビンが放りなげられるなどしたため試合は数分間中断した(The Hail Mary)。
1976年は11勝2敗1分の成績でプレーオフでもワシントン・レッドスキンズ、ロサンゼルス・ラムズを破り1977年1月9日カリフォルニア州パサデナのローズボウルで行われた第11回スーパーボウルに出場しオークランド・レイダースと対戦した。この試合に14-32で敗れスーパーボウル初制覇はならなかった。
1977年も9勝5敗で地区優勝を果たし5年間で4度目となるNFCチャンピオンシップゲームに進出した[3]がテキサス・スタジアムで行われたダラス・カウボーイズとの試合で6-23で敗れた[2]。
1978年は8勝7敗1分の成績ながらプレーオフに出場したが、敵地ロサンゼルスでのラムズとの試合で10-34で敗れた[2]。このシーズン終了と共にターケントンは多くのパス記録を残し現役を引退した[注 1]。1968年から1978年までの11年間で10シーズンバイキングスは地区優勝を果たしていた[3]。
1980年代
1981年、ドラフト8巡目でQBウェイド・ウィルソンを指名した。同年5月15日チームオフィス、練習場などをイーデンプレーリーに移した。これらの施設はバイキングスの創設者の1人であるマックス・ウィンターによってウィンターパークと呼ばれるようになった[3]。1981年12月20日、メトロポリタン・スタジアムでの最後のホームゲームがカンザスシティ・チーフスとの間で行われこの試合は6-10でバイキングスは敗れた[3]。
新スタジアムであるヒューバート・H・ハンフリー・メトロドームでの初試合は1982年8月21日のシアトル・シーホークスとのプレシーズンゲームであった。試合はトミー・クレイマーからジョン・センサーへのタッチダウンパスで7-3と勝利した[3]。
1984年1月27日にヘッドコーチのバド・グラントが17シーズンのレギュラーシーズンを151勝87敗5分(勝率63.2%)、プレーオフ出場12回、地区優勝11回、スーパーボウル4回出場の記録を残しは退任した[3]。後任には5年間彼の下でオフェンスアシスタントコーチを務めたレス・ステッケルが就任した。
1984年にヘッドコーチとなった際、ステッケルは38歳でリーグで最も若いヘッドコーチであった。そのシーズンバイキングスはチーム史上最低の13敗を記録しステッケルは1年で解雇され[2]、12月18日にバド・グラントが再びヘッドコーチに就任した。
1985年シーズン終了後の1986年1月6日グラントは再度退任した。この時点で彼はプレーオフを含めて168勝しておりこれは当時6位の記録だった。18シーズンの彼の成績は158勝96敗5分であった[5]。翌日1月7日に長年1968年から1985年までバイキングスのオフェンスコーディネーターだったジェリー・バーンズが4代目のヘッドコーチに就任した[3]。
バーンズ就任1年目の1986年、トミー・クレイマーがカムバック賞を受賞する活躍でチームは9勝7敗の成績を残した。シーズン前の1986年8月2日にはフラン・ターケントンがプロフットボール殿堂入りを果たしていた[3]。
1987年シーズンは8勝4敗でスタートしたがストライキで主力選手を欠いて最後に3連敗して8勝7敗となったがプレーオフでは敵地ルイジアナ・スーパードームでシーズン12勝3敗のニューオーリンズ・セインツを44-10で破り、キャンドルスティック・パークでシーズン13勝2敗のサンフランシスコ・49ersを36-24で破った。この試合でアンソニー・カーターがプレーオフ史上最長となる227ヤードをパスキャッチで稼いだ。RFKスタジアムで行われたNFCチャンピオンシップゲーム、ワシントン・レッドスキンズ戦では最後残り1分余りで敵陣6ヤードまで攻め込んだがウェイド・ウィルソンからダレン・ネルソンへのパスが失敗しスーパーボウル出場はならなかった。
1989年10月12日に史上最大規模のトレードでダラス・カウボーイズのRBハーシェル・ウォーカーを獲得した。この時バイキングスからカウボーイズにトレードされたドラフト指名権でRBエミット・スミスなど多くの有望な選手が指名されることとなり、一方、ウォーカーは3シーズンプレイしただけに終わった。
1990年代
1991年12月3日、バーンズヘッドコーチが退任を発表、6シーズンの成績は52勝43敗(勝率54.7%)であった。後任にはアフリカ系アメリカ人でスタンフォード大学ヘッドコーチだったデニス・グリーンが就任し彼は10シーズンを97勝62敗、8シーズンプレーオフ出場、4回の地区優勝、2回のNFCチャンピオンシップゲーム出場の成績を残した。
1992年、テリー・アレンがチーム記録を更新する1,201ヤードを走りチーム記録に並ぶ13タッチダウンをあげた。またクリス・ドールマンはNFL3位の14.5サックをあげた。
1993年、フリーエージェント制導入によりブライアン・ハビブ、カーク・ローダーミルク、ゲイリー・ジマーマンと先発オフェンシブラインマンの3人、アル・ノガを失った一方でQBジム・マクマーンを獲得、彼はチームをプレーオフに導いた。
1994年にチームはヒューストン・オイラーズのQBウォーレン・ムーンを獲得、1994年、1995年と彼は2年連続で4,200ヤード以上を獲得する活躍を見せたが1996年シーズン半ばに鎖骨を骨折し戦列を離れた。NFLでほとんどプレーしたことのないブラッド・ジョンソンがシーズン後半から先発しチームはプレーオフ出場を果たした。
1997年、ドラフト外でQBトッド・バウマンを獲得した。この年もエースQBとなったブラッド・ジョンソンが活躍、シーズン終盤にシーズン絶望となったもののプレーオフに出場、ワイルドカードプレーオフのニューヨーク・ジャイアンツ戦でランドール・カニンガムが2タッチダウンパスをあげる活躍を見せて敵地ジャイアンツ・スタジアムで勝利したがディビジョナル・プレーオフでサンフランシスコ・49ersに敗れた。
1998年、チームは2億ドルでロジャー・ヘドリックからレッド・マコームズに売却された。この年チームはQBランドール・カニンガム、RBロバート・スミス、WRクリス・カーター、ルーキーのWRランディ・モスらの活躍でNFL記録となるシーズン556得点、全ての試合で24得点以上をあげた。この記録は2007年にニューイングランド・ペイトリオッツに破られるまで残った。チームはタンパベイ・バッカニアーズに3点差で敗れた試合を除き15勝1敗でプレーオフに出場、アリゾナ・カージナルスを41-21で破りNFCチャンピオンシップゲームで14勝2敗でシーズンを終えたアトランタ・ファルコンズと対戦したがシーズン中フィールドゴール、エクストラポイントを1度もミスしていなかったキッカーのゲイリー・アンダーソンが残り2分を切って27-20とリードしているところで38ヤードのFGを失敗した後に追いつかれ、最後はオーバータイムでのモーテン・アンダーセンの38ヤードのFGで敗れ第33回スーパーボウル出場はならなかった[6][7]。レギュラーシーズンを15勝1敗で終えたチームはNFL史上3チーム目であったが、初めてスーパーボウル出場を逃した[8](他の2チームは、1984年のサンフランシスコ・フォーティナイナーズ、1985年のシカゴ・ベアーズ)。
1999年もカニンガムが先発したが2勝4敗となったところでジェフ・ジョージが先発QBとなり残り試合を8勝2敗とし、10勝6敗でワイルドカードプレーオフではダラス・カウボーイズを27-10と破り、その年のシンデレラボーイ、カート・ワーナー率いるセントルイス・ラムズと対戦した。前半バイキングスは17-14とリードしたが後半ラムズが35-20と圧倒し、最終的に37-49で敗れた。ラムズは第34回スーパーボウル優勝を果たしている。
2000年代
2000年には第14週までを11勝2敗としたがエースQBのダンテ・カルペッパー(前年のドラフト1巡目に指名)を負傷で欠いた最後の3試合、ラムズ、パッカーズ、コルツに敗れ11勝5敗となった。ディビジョナルプレーオフでセインツを34-16と破った後、NFCチャンピオンシップゲームでニューヨーク・ジャイアンツと対戦したが0-41とフランチャイズ史上最悪の敗戦を喫した[9]。RBのロバート・スミスはチーム記録そしてシーズン記録となる1521ヤードを走ったがこのシーズンでわずか8年のキャリアを終えた[10]。
2001年、5勝10敗となったところでチームはグリーンヘッドコーチを解任し、シーズン残り1試合となったところで後任にマイク・タイスを迎えた。
2002年、ドラフト1巡目全体7位で指名したOTブライアント・マッキニーは98日間のホールドアウトを行った上で8試合に欠場した末[11]、ようやく契約にこぎつけた[12]。
2003年、開幕6連勝を果たしたがほんのわずかの差でプレーオフ出場を逃した。開幕6連勝したがプレーオフ出場を逃したのは1978年のワシントン・レッドスキンズに次いで史上2チーム目であった。
2004年QBカルペッパーがNFLトップの4717ヤード、39タッチダウンパス(チーム記録)、総獲得ヤード5,123ヤード(NFL記録)の数字を残しチームを引っ張った。プレーオフでは同地区のライバル、パッカーズを31-17で破り[13]、8勝8敗のチームとしてはセントルイス・ラムズに次いで史上2チーム目となったがディビジョナルプレーオフでフィラデルフィア・イーグルスに敗れた[14]。
2005年3月2日、ランディ・モスをオークランド・レイダースのラインバッカー、ナポレオン・ハリス及びドラフト指名権とトレードした。レッド・マコームズオーナーはメトロドームに代わる新スタジアムの建設かロサンゼルスか出身のサンアントニオへの移転を考えていたが実現できず、この年ジギー・ウィルフに6億ドルでチームを売却した[15]。
そのシーズン2勝5敗でスタートしたところで、カルペッパーがひざを負傷して[16]シーズン絶望となったが最終的にはプレーオフ出場にわずか1勝足りない9勝7敗で終えた。マイク・タイスヘッドコーチは、オーナーのジギー・ウィルフによって解雇された[17]。
2006年はブラッド・チルドレスが新ヘッドコーチとなった。4勝2敗でスタートしたものの最後は6勝10敗に終わり下から7番目の成績となったバイキングスは、2007年のドラフト1巡全体7番目ではオクラホマ大学のRBのエイドリアン・ピーターソンを指名した。ピーターソンはそのシーズンのシカゴ・ベアーズ戦でラン、パスキャッチ、リターンで361ヤードを稼ぎNFL記録を作った(それまでの記録はジャマール・ルイスの296ヤード)。
2007年には中盤5連勝したものの最後に連敗するなど8勝8敗に終わりプレーオフを逃した。
2008年シーズンオフにケリー・ホルコム、ブルックス・ボリンジャーと2人のQBはフリーエージェントとなりチームを去った。ピーターソン、ラムズより加入したジャニーマンQBガス・ファーロット、WRバーナード・ベリアンらの活躍で地区優勝を果たしたがプレーオフ初戦でフィラデルフィア・イーグルスに敗れてシーズンを終えた。
2009年のオフシーズンに2度の現役引退表明をしていたブレット・ファーヴがバイキングスで現役復帰を目指しているという噂が流れ、大きな論議を呼んだ。フラン・ターケントンはファーヴの復帰に反対し、グリーンベイ・パッカーズのファンにも同地区ライバルチームでの彼の復帰には強い反対があった。8月になってファーヴは復帰を決めてチームと契約した[18]。
2010年代
2010年、この年もブレット・ファーヴが現役を続行するかどうかに注目が集まった。ファーヴは現役を続行したが前年とは打って変わり不調となりWRシドニー・ライスはでん部の怪我でPUPリスト入りして開幕戦から欠場が続き、WRパーシー・ハービンも偏頭痛に苦しんだ[19]。ランディ・モスをシーズン途中にドラフト3巡目指名権と引き換えに獲得したが4試合に出場したところでチームに不協和音をもたらすとして解雇した[20]。3勝7敗となりプレーオフのチャンスがほぼ無くなったところでチルドレスヘッドコーチは解任されレスリー・フレージャーディフェンスコーディネーターが暫定ヘッドコーチに就任した[21]。
フレージャーはそのまま正式なHCとなり、2011年、ドラフト1巡目でQBクリスチャン・ポンダーを指名した。この年は地区最下位となるも2012年はワイルドカードでプレーオフ進出を果たす。2013年シーズンは前半8試合を1勝7敗と出遅れ、後半8試合では4勝3敗1分の成績をあげたものの、5勝10敗1分に終わり、シーズン終了後、レスリー・フレージャーヘッドコーチは解雇された[22]。2013年10月6日、シーズンの途中に前タンパベイ・バッカニアーズのQBジョシュ・フリーマンと契約した。メトロドームの使用は、2013年をもって終了した。
2014年シーズンからはマイク・ジマーをHCに迎え、2015年には地区優勝を果たした。2014年と2015年はTCFバンクスタジアムを使用した。2014年のドラフト1巡目でQBテディ・ブリッジウォーターを指名した。2016年9月、フィラデルフィア・イーグルスのQBサム・ブラッドフォードをドラフト指名権とのトレードで獲得した。この年に新本拠地USバンク・スタジアムに移ったが、プレーオフ進出は逃した。
2017年には地区優勝を遂げ、ディビジョナル・プレーオフでは残り時間ゼロのタッチダウンパスによりニューオーリンズ・セインツを破ったが、コンファレンス・チャンピオンシップではフィラデルフィア・イーグルスに敗れて地元で行われるスーパーボウルには進出できなかった。
2018年にはワシントン・レッドスキンズからQBカーク・カズンズを獲得したが、最終週で敗れてプレーオフを逃した。ブラッドフォードはアリゾナ・カージナルスに移籍した。
2019年は第6シードのワイルドカードでプレーオフ進出を果たした。初戦ではニューオーリンズ・セインツをオーバータイムで破ったが、二戦目でサンフランシスコ・フォーティナイナーズに敗れた。
2020年代
2020年は新型コロナウイルス感染症の流行により全試合を無観客で開催した。プレーオフ進出を逃した。
2021年もプレーオフ進出を逃した。シーズン終了直後、GMリック・スピールマンとHCマイク・ジマーが解雇された。
2022年はGM後任にクリーブランド・ブラウンズの幹部だったクウェシ・アドフォ・メンサが就いた。HC後任にはロサンゼルス・ラムズのOCだったケビン・オコンネルが就いた。第15週のインディアナポリス・コルツ戦では前半を終えたところで0-33の劣勢から同点に追いつき、延長でNFL史上最大の逆転勝利をおさめて5年ぶりの地区優勝を決め、3年ぶりのプレーオフ進出となった。レギュラーシーズンを13勝4敗で終え、第3シードでプレーオフに進んだが、初戦でジャイアンツに敗れた。エド・ドナテルDCを解雇した。
2023年は10月29日にカズンズがアキレス腱を負傷し、シーズン終了となった[23]。代わりにホール、ドブス、ムレンズをQBに起用した。シーズン終了後、カズンズはアトランタ・ファルコンズに去った[24]。
文化
マスコット
バイキングスは、公式マスコットの開発に何度か失敗した後、2007年シーズンにビクター・ザ・バイキング(Viktor the Viking)が誕生した。 ビクター・ザ・バイキングは、筋肉質の体に金髪で口ひげを生やしたキャラクターで、背番号1番のジャージを着て活動している。
かつて、1970年から1992年までは、トラック運転手のハブ・ミーズがバイキングに扮してチームのマスコットを務めていた。ミーズは、ニューオーリンズで開催された第4回スーパーボウルにて、誤って警備員にフィールドに入れられてしまったことをきっかけに、マスコットになることを希望した。1994年から2015年までは、伝説のバイキングのラグナル・ロズブロークをモチーフにしたラグナー(Ragnar)が活動していた。 2015年、バイキングスは中で演じているジョセフ・ジュラニッチが1試合あたり2万ドルを要求していたことから、新たな契約合意に至らなく、チームはジュラニッチを放出し、ラグナーの活動も終了した。
NFC 2023 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順 位 |
チーム | 地 区 |
勝 | 敗 | 分 | 勝率 | DIV | CON | SOS | SOV |
地区優勝 | ||||||||||
1[a] | サンフランシスコ・49ers | 西 | 12 | 5 | 0 | .706 | 5–1 | 10–2 | .509 | .475 |
2[a] | ダラス・カウボーイズ | 東 | 12 | 5 | 0 | .706 | 5–1 | 9–3 | .446 | .392 |
3[a] | デトロイト・ライオンズ | 北 | 12 | 5 | 0 | .706 | 4–2 | 8–4 | .481 | .436 |
4[b] | タンパベイ・バッカニアーズ | 南 | 9 | 8 | 0 | .529 | 4–2 | 7–5 | .481 | .379 |
ワイルドカード | ||||||||||
5 | フィラデルフィア・イーグルス | 東 | 11 | 6 | 0 | .647 | 4–2 | 7–5 | .481 | .476 |
6 | ロサンゼルス・ラムズ | 西 | 10 | 7 | 0 | .588 | 5–1 | 8–4 | .529 | .453 |
7[c][d] | グリーンベイ・パッカーズ | 北 | 9 | 8 | 0 | .529 | 4–2 | 7–5 | .474 | .458 |
レギュラーシーズン敗退 | ||||||||||
8[c][d] | シアトル・シーホークス | 西 | 9 | 8 | 0 | .529 | 2–4 | 7–5 | .512 | .392 |
9[b][c] | ニューオーリンズ・セインツ | 南 | 9 | 8 | 0 | .529 | 4–2 | 6–6 | .433 | .340 |
10 | ミネソタ・バイキングス | 北 | 7 | 10 | 0 | .412 | 2–4 | 6–6 | .509 | .454 |
11 | シカゴ・ベアーズ | 北 | 7 | 10 | 0 | .412 | 2–4 | 6–6 | .464 | .370 |
12 | アトランタ・ファルコンズ | 南 | 7 | 10 | 0 | .412 | 3–3 | 4–8 | .429 | .462 |
13 | ニューヨーク・ジャイアンツ | 東 | 6 | 11 | 0 | .353 | 3–3 | 5–7 | .512 | .353 |
14 | ワシントン・コマンダース | 東 | 4 | 13 | 0 | .235 | 0–6 | 2–10 | .512 | .338 |
15 | アリゾナ・カージナルス | 西 | 4 | 13 | 0 | .235 | 0–6 | 3–9 | .561 | .588 |
16 | カロライナ・パンサーズ | 南 | 2 | 15 | 0 | .118 | 1–5 | 1–11 | .522 | .500 |
タイブレーク | ||||||||||
注釈
- ^ パス試投6467、パス成功3686、パス獲得ヤード47003、タッチダウンパス342回
出典
- ^ a b c Minnesota Vikings PRO FOOTBALL HALL OF FAME
- ^ a b c d e f g h Minnesota Vikings Sports E-cyclopedia
- ^ a b c d e f g h i j k l m History:Team Timeline
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- ^ “Falcons sign quarterback Kirk Cousins”. 2024年3月14日閲覧。
固有名詞の分類
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