マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア マリア・レオポルディナ・デ・アウストリアの概要

マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 04:06 UTC 版)

マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア
Maria Leopoldina de Áustria
ブラジル皇后
ポルトガル王妃
在位 ブラジル皇后:
1822年10月12日 - 1826年12月11日
ポルトガル王妃:
1826年3月10日 - 1826年5月2日

全名 マリア・レオポルディーネ・ヨーゼファ・カロリーネ
Maria Leopoldine Josepha Caroline
レオポルディナ・カロリーナ・ジョセッファ・フランシスカ・フェルナンダ
Leopoldina Carolina Josefa Francisca Fernanda
出生 (1797-01-22) 1797年1月22日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1826-12-11) 1826年12月11日(29歳没)
ブラジル帝国リオデジャネイロキンタ・ダ・ボア・ヴィスタ
埋葬 1954年9月7日(改葬)
ブラジルサンパウロブラジル独立記念碑英語版
結婚 1817年11月6日 リオデジャネイロ
配偶者 ペドロ1世
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ2世
母親 マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン
サイン
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ウィーン宮廷での生い立ち

「ポルドル」の愛称で呼ばれるレオポルディナ大公女は1797年にウィーンで生まれた。彼女はオーストリア皇帝フランツ1世の5人目の子どもであり、四女であるが、フランツ帝の皇后であったナポリ王女マリア・テレジアが生んだ女子の中ではマリー・ルイーズの妹、ザクセン王太子妃となるカロリーネ・フェルディナンデの姉にあたる。 1807年4月、彼女がわずか10歳の頃に母后マリア・テレジアが急死した。その後、フランツ帝は年若いマリア・ルドヴィカ・フォン・エスターライヒ=エステを後妻に迎えた。 皇后が気に入り、大いに称賛している詩人のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによると、1810年の夏に皇后とレオポルディナはカールスバートの湯治場への旅行で出会ったという。

幼い頃からレオポルディナは旺盛な好奇心を示した。彼女の専門分野は植物学蝶類の研究および鉱物であった。まだ若いうちに、彼女は描画のレッスンを受け、彼女のまとまった描画はオーストリア国立図書館に収蔵されている。 彼女はフランス語イタリア語ラテン語を完全に習得した。 またポルトガル語も教師が付き学びはじめるとたちまち習得した。

彼女の最愛の姉マリー・ルイーズが1810年フランス皇帝ナポレオン1世と結婚すると、レオポルディナは彼女に手紙をしたためた。 ナポレオン自身は若い皇后とレオポルディナの親密な仲を意識し、手紙を書いた。

「私は皇后の兄弟姉妹とお会いすることを切に希望いたします。愛と感謝をこめて」

15歳のレオポルディナは典型的なハプスブルク家の身体的特徴を備えていた。金髪に青い目と「ハプスブルクの唇」と呼ばれる受け口であり、これは彼女を大いに悲しませた。マリー・ルイーズ大公妃がかつて大きな鏡をもらった時に、彼女は次のように答えた。

「鏡に映る自分の唇を見たとしても、驚かないわ。私の唇は3度の食事をたくさん食べられるようにできているのだから」

マリー・ルイーズは幼いナポレオン2世(のちのライヒシュタット公)を連れてウィーンの実家に戻ることを決めると、レオポルディナはこの幼い甥の面倒をよく見て、かわいがった。

1816年7月9日、レオポルディナはマリー・ルイーズと離れ離れになることになった。

「ライヒシュタット公が昨日私たちのもとを訪れたときには、私は彼に素晴らしいものをご覧にいれ、ごちそうをふるまいました。慈悲深い神様は、彼を私に与えてくださったのです。私がすすんで取り上げてきたものです。そこでは、彼は私のとなりに座ったときにです、神様と私は、欲得なしにお姉さまに保証しました、彼はご自分の秘密を私に堂々とに話しました」。

婚約と結婚

1816年にポルトガルの王太子ペドロとオーストリア大公女レオポルディナの結婚にまつわる交渉がはじまった。父帝フランツ1世はこの縁談の強力な支援者ではなかった。皇帝はペドロの不道徳な暮らしぶりと彼がてんかんもちであることを知っていた。しかし、皇帝を手中で操る外相クレメンス・メッテルニヒの強い要望でこの婚儀は整った。レオポルディナはイタリアのパルマ公国にいる姉のマリー・ルイーズにこう書いている。

「大きな決断です!しかし彼は優しい…ブラジルは素晴らしい場所で、心地よい熱帯の、祝福された国で、住民は古風で善良です…ペドロ王子の肖像は私を魅了します…彼はアドニスのようにたいへん美しいのです」

花嫁の叔父のルードヴィヒ大公はマリー・ルイーズにこう書いている。

「レオポルディナ殿下は世界で最も偉大な君主国へと行くでしょう。ここでは殿下は良く植物を採集し、鉱物を収集することができるでしょう」

遠縁の叔父のラニエーリ大公はこの出来事に一層批判的で予見するかのような言葉を残している。

「彼女が家族の誰かとまた会えるかどうかを、誰がわかっているのだろうか。これはもはや死による今生の別れである」。

これらの危惧とともに大公の名は残ることになった。

1817年5月13日にレオポルディナはハプスブルク家が結婚式を挙げる教会、ウィーンの聖アウグスティヌス教会、でウィーンでの代理人によってペドロとの結婚式を挙げた。代理人として彼女の叔父のカール大公が務めた。




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