マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア ブラジル王太子妃

マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 04:06 UTC 版)

ブラジル王太子妃

当時の王太子ペドロはリオデジャネイロにいた。そこに、レオポルディナは1817年11月には3ヵ月の長い旅を経て到着した。1817年11月、リオデジャネイロ市宮殿の王立教会で大いなる輝きのもとでレオポルディナとペドロの結婚式が執り行われた。

ここではペドロはがさつな男であったので、レオポルディナは急速に夫に対して影響力を増していった。ペドロはブラジルの独立宣言のすべての政治的な役割をレオポルディナと議論し彼女の助言に従っていた。1822年1月、ペドロは、父王のブラジルの王権を委任を、広範な自治へと導いた。この国の歴史上決定的な歩みはレオポルディナの影響力による。1822年のペドロがこの年にサンパウロへの旅行を決定したときに、彼はレオポルディナに首都の留守を任せる摂政妃とした。1822年9月、ペドロは、レオポルディナの懇願によって、ブラジルのポルトガルからの独立を宣言した。

ブラジル皇后

ブラジル皇后レオポルディナ
摂政として(1822年)

1822年12月1日に帝政が樹立された。このとき、レオポルディナは、「母国の体制について直截かつ明確な考え」を持っていることを発表した。

レオポルディナはオーストリアの自然科学者と画家をブラジルに招いた。彼女は価値のある成果を上げたオーストリアとの合同探検を行わせた。科学についての彼女の功績は、たとえば彼女の名前にちなんで命名されたヤシ目ヤシ科の下の属名の一つ w:Leopoldinia Mart.がある。彼女がかつてウィーンで住まいとしていた建物に、彼女はブラジルの博物館の基礎を設けた。

レオポルディナとペドロの調和のとれた結婚はその後、1822年から陰鬱な陰が横たわるようになった。皇帝は旧知の女性ドミティリアのためにサンパウロへ旅行をしてきた。彼女は皇帝が寵姫として公にブラジル宮廷に入れた人物であった。 レオポルディナには不条理なことに、彼女はペドロの意向で皇后の第一女官に任命された。レオポルディナは、ドミティリアが皇帝との間に庶子である娘をもうけ、貴族に取立てられるのを経験しなければならなかった。娘たちは当然のごとく皇帝の嫡出子とともに育てられた。

皇帝夫妻の私的な言い争いは大きくなり、これにペドロはさほどの恐れおののかなかったが、レオポルディナに手を挙げるようになった。彼は宮廷で彼女を貶め、中傷するためにどのような状況も利用した。彼女はパルマの姉マリー・ルイーズに新婚後の自分について、辛く憂鬱にこう書いている。

「犠牲者の微かな助けを求める叫び声を聞いください…あなたから、復讐ではなく慈悲を求める叫び声を」
"Hört wenigstens den Notschrei eines Opfers, [...] das von Euch nicht Rache, aber Mitleid erbittet."

1826年12月1日に、ペドロは夫婦げんかにさいし突然、妊娠しているレオポルディナのお腹を多数蹴ろうとし、それで死産が起きた。レオポルディナは10日後の1826年12月11日にリオデジャネイロのキンタ・ダ・ボア・ヴィスタにあるサン・クリストヴァン宮殿で他界した。人々は、ペドロの誤った扱いとそれによる死産が30歳を待たずにレオポルディナを死なせたと思った。彼女の死から3日後に、レオポルディナの遺体は アジュダ女子修道院に安置された。修道院が破壊されると1911年にサン・アントニオ修道院に遷された。

マリア・レオポルディナと子供達

1954年9月7日に、ブラジルの独立記念日にサンパウロの独立記念碑に改葬された。

人物

  • ブラジルで女性君主として生前から国民の支持を集めた。現在も国民の巡礼地において聖女として崇められ、「国家の母」「独立の祖」「国民の守護天使」と称賛されている。
  • 自然科学に造詣が深く、畜牛の研究なども熱心に行った。現在のブラジルの畜産業の礎を築いたとされる。
  • ブラジルの自治体のひとつサンタ・レオポルディナ (Cachoeiro de Santa Leopoldina)は彼女に因む。



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