ボルジギン氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 01:10 UTC 版)
現代のボルジギン氏
現代のモンゴル国や中華人民共和国のモンゴル人社会でも、かつての氏族とは意味合いを変質させているものの、オボク(氏族)という概念が存在する。
中国式に人名の一要素として姓を名乗る習慣が本来なかったモンゴル人も、特に中国のモンゴル族では、便宜上オボクを姓の代わりに名乗ることがある。こうしたとき、チンギス・カンの血を引くかつてのモンゴル王侯の末裔たちが名乗る姓(オボク)がボルジギンであり、彼らはボルジギン・何某というようにボルジギンを姓のように名乗っている。
また、モンゴル国では、民主化後社会主義時代に封建制の象徴として使われなくなっていたオボク名を復活して登録させる動きが起こったが、ボルジギンをオボクとして申告した人が非常に多かったという。
参考文献
- ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、平凡社、ISBN 4582801102)
- 村上正二訳注『モンゴル秘史1チンギス・カン物語』(1970年、平凡社)
関連項目
- ^ 『モンゴル秘史1』p39
- ^ 『集史』だとモヌルン(Monulun)、『元朝秘史』だとノムルン(Nomulun)<『モンゴル秘史1』p51>
- ^ 『モンゴル帝国史1』p23-26
- ^ 『モンゴル秘史1』p60
- ^ 『モンゴル帝国史1』p26-27
- ^ 『大金国志』「皇統七年……是歳、朦骨国平。初、撻懶既誅、其子勝花都郎君者、率其父故部曲以叛、与朦骨通。兀朮之未死也、自将中原所教神臂弓手八万討之、連年不能克。皇統之六年八月、復遣蕭保寿奴与之和、議割西平河以北二十七団塞与之、歳遺牛羊米荳、且冊其酋長熬羅孛極烈、為朦骨国主、至是始和、歳遺甚厚。于是熬羅孛極烈自称祖元皇帝、改元天興。大金用兵連年、卒不能討、但遣精兵、分拠要害而還」
- ^ 『モンゴル秘史1』p66-78
- ^ 『モンゴル帝国史1』p27-30
- ^ 『モンゴル秘史1』p78-102
- ^ 『モンゴル帝国史1』p30-34
- ボルジギン氏のページへのリンク