ボルジギン氏 モンゴル帝国以降のボルジギン氏

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ボルジギン氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 01:10 UTC 版)

モンゴル帝国以降のボルジギン氏

チンギス・カン以降のキヤト・ボルジギン氏系図

モンゴル帝国のもとでは、チンギス・カンとその3人の同母弟のジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンの子孫は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と称され、一般の遊牧民や遊牧貴族の上に君臨する君主の血筋とみなされるようになった。そしてチンギス・カン兄弟以外のキヤト氏族の人々と「黄金の氏族」を区別するため、彼らは単に「ボルジギン」を氏族名として称した。ここに、かつてはボドンチャルの子孫全体の氏族名であったボルジギンは、モンゴル帝国のカアン(ハーン、皇帝)家に固有の氏族名として使われ始める。

チンギス・カンの築いたモンゴル帝国は、中国からロシア中東にまで勢力を拡大し、世界史上空前の大帝国に成長した。このためボルジギン氏の子孫たちは帝国の最高君主であるカアン(ハーン)位を継承した元朝を始め、チャガタイ・ウルスジョチ・ウルス、フレグ・ウルス(イルハン朝)など大小さまざまな王国を形成し、その王家として栄えた。

これらの諸政権は14世紀には次第に衰退して解体したり再編されたりしたが、その後もモンゴル帝国の旧支配地では、ボルジギン氏であるチンギス・カンの男系子孫しかカアン(ハーン)になれないという慣習が根強く残った。これをチンギス統原理という。

モンゴル高原では、元がに追われて高原に退いた後、ボルジギン氏の王家は一時的に衰退したが、16世紀初頭にチンギス・カンの末裔のダヤン・ハーンがモンゴル高原を再統一することによって息を吹き返す。その後のモンゴルではダヤン・ハーンの子孫たちが分家を繰り返しつつ各部族を支配する王侯として定着し、17世紀以降のの支配のもとでも彼らはその地位を保ち、ボルジギト(博爾済吉特)氏(Borjigit hala)は孝荘文皇后などを通じて皇帝と血の繋がりもできた。

20世紀においても、ボルジギン氏はデムチュクドンロブ(徳王)、ダリジャヤ中国語版(達王)など、政治的に重要な役割を果たした人物を輩出している。


  1. ^ 『モンゴル秘史1』p39
  2. ^ 『集史』だとモヌルン(Monulun)、『元朝秘史』だとノムルン(Nomulun)<『モンゴル秘史1』p51>
  3. ^ 『モンゴル帝国史1』p23-26
  4. ^ 『モンゴル秘史1』p60
  5. ^ 『モンゴル帝国史1』p26-27
  6. ^ 『大金国志』「皇統七年……是歳、朦骨国平。初、撻懶既誅、其子勝花都郎君者、率其父故部曲以叛、与朦骨通。兀朮之未死也、自将中原所教神臂弓手八万討之、連年不能克。皇統之六年八月、復遣蕭保寿奴与之和、議割西平河以北二十七団塞与之、歳遺牛羊米荳、且冊其酋長熬羅孛極烈、為朦骨国主、至是始和、歳遺甚厚。于是熬羅孛極烈自称祖元皇帝、改元天興。大金用兵連年、卒不能討、但遣精兵、分拠要害而還」
  7. ^ 『モンゴル秘史1』p66-78
  8. ^ 『モンゴル帝国史1』p27-30
  9. ^ 『モンゴル秘史1』p78-102
  10. ^ 『モンゴル帝国史1』p30-34


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