ホヴァーンシチナ 楽器編成

ホヴァーンシチナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/05 23:51 UTC 版)

楽器編成

  • リムスキー=コルサコフによるオーケストレーション
ピッコロフルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバティンパニバスドラムスネアドラムシンバルタムタムタンブリントライアングル、鐘、ハープピアノ弦五部
  • ショスタコーヴィチによるオーケストレーション
フルート3(第3はピッコロ持ち替え)、オーボエ3(第3はコーラングレ持ち替え)、クラリネット3(第3はバスクラリネット持ち替え)、ファゴット3(第3はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、バスドラム、スネアドラム、シンバル、タムタム、トライアングル、鐘、グロッケンシュピールシロフォン、ハープ2〜4、ピアノ、チェレスタ、弦五部
舞台裏でトランペット4、コルネット2、ホルン2、バリトンホルン2、ユーフォニアム2、チューバ2、バラライカ(任意)、ドムラ(任意)
バンダ(ホルン、トランペット、トロンボーン)

ムソルグスキー自身によるオーケストレーションも部分的に残されている[4]

登場人物

人物名 声域
イヴァン・ホヴァーンスキー公 バス 銃兵隊長官
アンドレイ・ホヴァーンスキー公 テノール イヴァンの息子
ヴァシーリー・ゴリーツィン公 テノール 皇女ソフィアの愛人・寵臣
ドシフェイ バス 古儀式派教徒の指導者。元は大貴族のムィシェツキー公[5]
マルファ メゾソプラノ 古儀式派教徒の娘、アンドレイのかつての恋人
フョードル・シャクロヴィートゥイ バスバリトン 旧勢力追い落としを謀る大貴族
スサンナ ソプラノ 狂信的な古儀式派教徒の老女
代書屋 テノール
エンマ ソプラノ ドイツ人居住区に住むルター派の娘
ルター派の牧師 バリトン (リムスキー=コルサコフ編曲版には登場しない)
ヴァルソノフィエフ バス ゴリーツィン公の腹心
クーシカ テノールまたはバリトン 若い銃兵隊員
ストレーシネフ バリトン 若い伝令、ピョートル1世の家臣
銃兵隊員1 バス
銃兵隊員2 バス
ゴリーツィン公の使者 テノール

その他(合唱、黙役)

銃兵隊員、銃兵隊員の妻、古儀式派教徒、モスクワの群集、女農奴、ホヴァーンスキー公の召使、ペルシャの女奴隷、外国人傭兵、ピョートル1世の親衛隊。

歴史的背景

ムソルグスキーの前作『ボリス・ゴドゥノフ』同様、本作もロシア史に基づいている。17世紀後半の一連の事件、ピョートル大帝の即位、摂政ソフィアの失脚、銃兵隊弾圧を題材としているが、史実では前後15年に及ぶ出来事[6]を短期間に起きたようにまとめている。また、ピョートル、ソフィアといった真の主役であるロマノフ朝の人物を舞台に登場させることができなかったため、新旧勢力の対比を明確化する必要から、シャクロヴィートゥイのように登場人物の立場を大きく改変(史実ではソフィアの腹心であるが、オペラではピョートルの側で暗躍)するなどしている。

古儀式派の発生と抵抗

ツァーリアレクセイの時代にニーコン総主教により行われたロシア正教会の改革は、典礼書の改訂にとどまらず、教会儀礼の細部にまで及んだ[7]。これは先祖代々の儀礼を大切に守ってきた人々の反発を招き、あくまでも改革を拒否し、古い儀式を守ろうとする古儀式派(分離派)を生み出すこととなった。代々のツァーリは改革を支持して古儀式派に弾圧を加えたが、古儀式派の中には、辺境に逃れ集団生活を営み、政府軍が迫ると小屋に立て籠もり火を放って集団自殺する者も現れた。1672年から1690年までの間にロシア全土でおよそ2万人が自ら命を絶ったとされる。白海ソロヴェツキー修道院では古儀式派修道士による反乱が8年に亘って繰り広げられ、古儀式派指導者アヴァクーム(ドシフェイのモデルとなった)は流刑後も節を曲げず抵抗を止めなかったため、火刑に処されている。

1682年の銃兵隊反乱
1682年の銃兵隊反乱を描いたドミトリエフ=オレンブルグスキーの絵画(1862年)。クレムリンに乱入する銃兵隊、中央の自分を指差す子供がイヴァン5世、その右にピョートル1世が立つ。

1676年にロシア正教会改革を支持したツァーリアレクセイは没し、マリヤ・ミロスラフスカヤを母とする三男フョードル3世が即位する。しかし、6年後の1682年、フョードルは後継者を指名しないまま20歳で没してしまう。後継者候補にはフョードルの同母弟で16歳のイヴァンと、アレクセイの後妻ナタリヤ・ナルイシキナを母とする異母弟で10歳のピョートルがいた。イヴァンが心身に問題を抱えていたのに対し、年少のピョートルは頑健であり、一旦は母の実家ナルイシキン家の後押しとヨアキム総主教の支持を得て、ナタリヤを摂政としてピョートルの即位が決定した。この動きに危機感を覚えたイヴァンの母方の実家ミロスラフスキー家では、イヴァンの実姉ソフィアを中心に陰謀を企み、かねてから政府に不満を持つ銃兵隊(ストレリツィ)を扇動して巻き返しを謀った。ナルイシキン家がイヴァンを殺害したというデマが流され、それに踊らされた銃兵隊は、5月15日、クレムリンに乱入、3日間に亘って殺戮・略奪を行った。この反乱により、ナルイシキン派の要人40名が殺害されている。反乱の立役者イヴァン・ホヴァーンスキー公は銃兵隊長官に就任し、銃兵隊にはおびただしい金品が与えられた。そして、ピョートルはイヴァンの共同統治者に格下げされ、二人のツァーリのもと、ソフィアが摂政として政治を行う体制が確立されたのである。

1682年7月5日、ソフィアの前でヨアキム総主教との論争に臨む古儀式派のニキータ・プストスヴャトを描いたペローフの絵画(1881年)。

権力を握ったソフィアであるが、今度は銃兵隊が新たな脅威となる。銃兵隊にはホヴァーンスキー公を始めとして古儀式派支持者が多く、反乱の成功により勢いをつけた彼等は、政治や信仰の問題に介入し始めた。7月にはクレムリンで古儀式派と総主教との間で激しい宗教論争が繰り広げられている。この論争はソフィアの巧みな誘導によって古儀式派の敗北となり、異端とされた古儀式派に対する弾圧はより一層強化された。更にソフィアは手を緩めず、9月にはホヴァーンスキー公を息子のアンドレイもろとも謀殺している。ホヴァーンスキー公亡き後の銃兵隊長官にはソフィアの腹心であるシャクロヴィートゥイが任命され、寵臣ヴァシーリー・ゴリーツィン公とともにソフィア体制を支えることとなった。この1682年の銃兵隊反乱及びそれに続く政情不安をロシア史では「ホヴァーンシチナ」と呼んでいる。

1689年の政変 摂政ソフィア失脚

銃兵隊を統制下に置き、ソフィアはロシアに安定をもたらすことに一先ず成功したが、対外政策で失敗したため、失脚することとなる。対ヨーロッパ外交を重視したソフィアは、オスマン帝国に対抗する神聖同盟に加わり、1687年、1689年の二度にわたりクリミア遠征を行った。しかし、補給線を絶たれ、いずれにおいても戦果をあげることができず、虚しく撤退している。事実を隠蔽し、指揮官であるゴリーツィン公を凱旋将軍として褒賞したものの、すぐに遠征失敗が明らかになったため、ソフィアの政府は信用を失った。ナルイシキン派はこれに乗じてピョートルを結婚させ(1689年1月)、ソフィアの摂政としての地位を脅かす挙に出た。対立が深まり、8月には暗殺計画の報も入ったため、ピョートルは至聖三者聖セルギイ大修道院へ避難したが、遠征失敗によりソフィアに失望していた軍、官僚、教会はピョートル支持に廻り、次々にピョートルの避難先へと集結した。敗北したソフィアは、9月に入り自分の顧問官をピョートルに引き渡し、ノヴォデヴィチ女子修道院に幽閉されることとなった。ゴリーツィン公は逮捕された後、北方へ流刑となり、シャクロヴィートゥイは処刑された。

1698年の銃兵隊反乱
ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア。レーピンの絵画(1879年)。 太った醜女として描かれ、窓外には処刑された銃兵の遺体が見える。

政敵を倒したピョートルであったが、その後しばらくは政治に携わることなく、軍事演習や乱痴気騒ぎに興じていた。しかし、代わりに国政をみていた母が亡くなり、共同統治者であるイヴァンも没すると、単独で政務を執るようになる。1697年3月からおよそ1年半に亘り、ヨーロッパへ250名の大規模使節団を派遣、自身もそれに加わり先進技術の習得に努めた。 ピョートルがモスクワを留守にしている間、銃兵隊がまたしても蜂起する(1698年6月)。反乱には幽閉されたソフィアの関与が疑われ、ソフィアの摂政復帰やピョートルの息子アレクセイを擁立する動きがあったが、知らせを受けたピョートルが帰国する以前に留守を預かる将帥の働きにより鎮圧される。帰国したピョートルは、半年をかけて謀反人の粛清を行った。反乱した銃兵は長期に亘って拷問を受けた後、処刑され、死体は赤の広場に放置された。処刑された銃兵は1000人を超え、黒幕と看做されたソフィアに対しては、見せしめとして修道院の周囲で数人の銃兵処刑が執り行われた。更に修道女となるよう強制され、修道女スサンナとなったソフィアは6年後に他界した。モスクワの銃兵隊は解体され、即位以来、ピョートルを悩ませていた脅威はここに取り除かれた。


  1. ^ 神竹喜重子 (2021). 「ホヴァーンシチナが日の目を見るまで──一九八二年のキエフ初演」大西由紀・佐藤英・岡本佳子編『オペラ/音楽劇研究の現在:創造と伝播のダイナミズム』. 水声社. p. 63-87 
  2. ^ Alfred Loewenberg (1978) [1943]. Annals of Opera 1597-1940 (3rd ed.). London: John Calder. p. 1121. ISBN 0714536571 
  3. ^ Richard Taruskin (1996). Stravinsky and the Russian Traditions. University of California Press. pp. 1054-1058. ISBN 0520070992 
  4. ^ 第3幕、「マルファの恋の歌」及び「酔い覚ましの合唱」の2箇所。
  5. ^ リムスキー=コルサコフ編曲版ではこの設定は表れてこない。
  6. ^ 1672年に始まる古儀式派の抵抗から数えればおよそ四半世紀にわたる。
  7. ^ 例えば、教会周囲の練り歩きの方向を逆にする、十字は2本指ではなく3本指で切る、祈拝は投身ではなく腰までで行う、など。
  8. ^ 本来は1870年に構想されたオペラ「水呑百姓」(Бобыль)のために作曲された。
  9. ^ フョードル3世が最晩年(1682年)に行った門地制(メストニチェストヴォ、Местничество)の廃止のことを指す。
  10. ^ ゴリーツィン公が指揮した二度のクリミア遠征失敗のことを指す。
  11. ^ 若き日のムソルグスキーはプレオブラジェンスキー連隊の将校であった。
  12. ^ 記載あるもののみ。
  13. ^ DreamLifeのDVD版ではカットされているが、131分の全長版ではこの場面は存在する。したがって、この映画としての改変とは考えられない。






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