ベルリンの歴史 分断されたベルリン

ベルリンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 07:56 UTC 版)

分断されたベルリン

分割されたベルリン

1945年2月11日、ヤルタ会談において連合国はドイツをイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦の4か国で占領し、ベルリンも4つに分割することが決められた。またソヴィエト赤軍はベルリンの戦い以降駐留し続けた地域のうち、1945年夏に西側3か国の占領地域から撤退した。ソヴィエトの軍司令官は5月の内に、戦後初のベルリン市長にアルトゥール・ヴェルナードイツ語版を任命し、ベルリン市参事会ドイツ語版、また共産党員が支援する市行政組織を設立した。ベルリンは連合国が4地区に分割して統治することになったが、4地区を通じて同一の司令官が管轄するものとされた。しかしこのとき、すでに西側諸国とソヴィエト連邦との間で激しい政治対立が起こっていた。米英占領地区 (Bizone) や米英仏占領地区 (Trizone) の形成、またのちのドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立や、ソヴィエト占領地区で流通していたライヒスマルクを西側占領地域において貨幣価値を消滅させるという突然の一方的な通貨改革ドイツ語版の実施について、ソヴィエトはこれらを4か国協定が破棄されたものと解釈した。一方でこの対立はソヴィエト占領地区がマーシャル・プランへの参加を拒絶した当然の結果でもある。マーシャル・プランは、ソヴィエト連邦にとってはその経済圏が引き離されることを意味し、受け入れるわけにはいかなかった。東側地域のドイツ各州はソヴィエト連邦に対して戦争賠償を支払い続ける必要があったのに対し(デモンタージュ)、西ドイツおよび西ベルリンはマーシャル・プランのもとで経済が強化され、また自由化が進められた。

1946年10月20日、4か国占領地区合同での大ベルリン市議会ドイツ語版選挙が行われ、SPD がキリスト教民主同盟 (CDU) 、社会主義統一党 (SED) に対して勝利する。政府や議会では非難の応酬が激しさを増し、西側占領地域に関する議論で騒然となる場面が引き起こされ、ついにはSED議員の出席が拒否される事態に至った。

1948年12月5日、大ベルリン市議会の改選が行われたが、ソヴィエトが自占領地区での選挙を禁止したため、実際には西ベルリンでのみ投票が行われた。社会主義統一党はこれに先立つ11月30日に東ベルリンの100名の自称議員で「市議会」を開催させた。そして参事会を合法的に解任したと声明し、フリードリヒ・エーベルト同名の元ヴァイマル共和政大統領の子)を市長に選出した。

ベルリン封鎖と「空の架け橋」作戦

1948年6月、ソヴィエトの駐屯軍はソヴィエト占領地域から西ベルリンに向かう道路と鉄道網をすべて封鎖し、ベルリン全体の経済を統制しようとした。大ベルリン市庁では東ベルリン同様、西ベルリンの全市民に対して食糧配給カードを配布したが、ほとんどの西ベルリン市民が食糧配給カードを利用しなかった。この封鎖は象徴的な事件で、もっぱら西側ドイツからの物資輸送を妨害するためだけに行われた。しかし西ベルリン市民は、自らを取り巻く政治情勢から、西部ドイツ経済圏の方に強い帰属意識を持ち、東側地区や周辺地域からの物資輸送に見切りをつけていった。

アメリカ政府はこの事態に対応し、食糧、燃料やそのほかの物資を西ベルリンに空輸する作戦(空の架け橋ドイツ語版、ベルリン空輸作戦)を実行する。ベルリン封鎖は1949年5月12日に解除されるが、空輸作戦は同年9月まで続行された。またこの作戦の一環としてアメリカ軍技術者によりテンペルホーフ空港が拡張された。この空輸作戦にあたって、パイロットが着陸時に子どもたちに菓子を窓から投げ落とすことがあったことから、ベルリン市民は空輸作戦に使われる航空機をレーズン爆撃機と呼んだ。なお菓子の包みは東ベルリンにも落とされた。

西ベルリンを自らが占領する地域に組み込み、また経済的に分離することを阻止しようとしたソヴィエト連邦の目論見は完全に失敗した。さらに、西ベルリンの住民は封鎖前よりも西部ドイツとの政治的・経済的な結びつきを強く認識するようになった。西ベルリンが政治的にも経済的にも乖離していく動きはもはやとどまることはなかった。

ベルリンと東西ドイツ

1949年5月23日、米英仏3か国占領地区からなるドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、同日公布された基本法の第23条では、大ベルリンを連邦州の1つとすることがうたわれた。これは同年10月7日に成立したドイツ民主共和国(東ドイツ)も同様であった。当時のドイツ民主共和国憲法では、ドイツ全体を「不可分の共和国」 (unteilbare Republik) と規定し、ドイツ国籍はただ1つのみであり、首都はベルリンである、とした。これは紛れもなく大ベルリン、すなわちベルリン全体を指していた。東ドイツの視点では、大ベルリンはソヴィエト占領地区内にあり、その西部を西側連合国が管理している、とされていた。このため新たに成立した東西ドイツ両国は大ベルリンにかかるあらゆる権利を主張していたが、実際には1990年10月3日まで、いずれかの完全な支配下に置かれることはなかった。

1950年、西ベルリンにおいてベルリン州憲法ドイツ語版が施行される。ベルリン州憲法第1条第2項では、ベルリンは1990年以前においてもドイツ連邦共和国(当時、政治的にはひとつのドイツの一部という意味で「西ドイツ」という表現が用いられていた)の1連邦州であるとうたわれていたが、この条文はベルリンが連合国の管理下におかれていたため効力を有することはなかった。1950年12月3日、初のベルリン市議会選挙が実施された。

東ドイツにおける6月17日事件

1953年6月17日、当初60人の建設業労働者で始められたデモはその後、全国規模の暴動に発展した。もともとデモの目的は、直前に東ドイツ政府が決定した労働生産性の引き上げ政策に抵抗するというもので、デモ行進は工事中のスターリンアレー(現在のカール=マルクス=アレー)に向かっていた。アメリカ軍占領地区放送局ドイツ語版 (RIAS) によるデモについての報道では、多くの東ベルリン市民がこのデモ行進に加わって団結していたとされている。東ベルリン市民がポツダム広場に到達すると、西ベルリン市民からも支援を受けていた。また東ドイツの一部の州でも東ベルリンでの蜂起に呼応してストライキやデモが実施された。

蜂起に統制が利かなくなるおそれが出たことにより、東ドイツ政府はソヴィエト軍に支援を要請した。このため市街戦が起こり、武装した労働者との激しい銃撃戦となった。この暴動の鎮圧に際して、少なくとも153人の死者を出した。また西ベルリンの労働者の加担、RIASの報道、人民警察への攻撃、東ドイツ政府機関が入居するコルンブスハウスドイツ語版への放火を利用し、東ドイツ政府はこれを反革命動乱、西ベルリンの策謀とした。しかし反感を買った労働生産性引き上げ政策は撤回され、また今後、反乱が起きた場合、ソヴィエト兵に頼らずとも鎮圧を可能にすべく、党の方針に従う市民からなる労働者階級戦闘団が結成された。

壁の建設

ブランデンブルク門前で演説するアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ(1963年)
ベルリンの壁の建設作業

1961年8月13日、東ドイツ政府はベルリンの分断を強固にするためにベルリンの壁の建設を開始した(ベルリン危機 (1961年)英語版)。ベルリンの壁建設計画は東ドイツ政府の国家機密であった。東ドイツは経済や職員が流出すること(いわゆる「足による投票 (Abstimmung mit den Füßen)」)を恐れ、東ドイツの国民が西側に移住することを壁によって阻止しようとしたのである。

早朝、ポツダム広場に石塊が積み上げられ始めた時点でアメリカ軍は実力を行使して壁の建設を妨害する準備はできていたものの、実際には壁が出来上がっていくのをただ眺めているだけであった。西側3か国は西ベルリンの封鎖を「露骨な手段」と伝え、遮断の時期と規模に驚きをあらわにした。しかしながら西ベルリンへの通行が遮られたということではなかったため、西側3か国は軍事介入を行わなかった。

1963年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがベルリンを訪問した。シェーネベルク区庁舎ドイツ語版の前でケネディは壁について演説し、歴史に残る "Ich bin ein Berliner" で締めくくった。この演説は、東ドイツに浮かぶ民主主義の孤島にあるベルリン市民にとっては大きな意味を持ったが、同時に壁建設を部分的に容認するアメリカの姿勢を象徴するものであった。その一方で壁は西側3か国にとっても東ドイツにとっても政治・軍事の面での安定化を意味し、西ベルリンの現状はまさしく固定化された。ソヴィエト連邦はかつて1958年に西側3か国に対しニキータ・フルシチョフによる最後通牒(ベルリン危機 (1958年)ドイツ語版)で要求した、非武装かつ「自由な」都市、西ベルリンを放棄したのであった。

1971年、西ベルリンとの通行について取り決めたベルリン4ヶ国協定が発効し、道路封鎖によって政治的・経済的に恫喝される心配もなくなった。さらに4か国はベルリン全体に対する共通の責任を確認し、西ベルリンはドイツ連邦共和国を構成する領域ではなく、かつドイツ連邦共和国による統治は及ばないものとされた。4か国の地位に関してソヴィエト連邦は、西ベルリンのみ適用されるとしたが、西側3か国は1975年に国際連合に宛てた文書で強調して、ベルリン全体に及ぶものとした。

街の発展とベルリンの政治

西ベルリンは西ドイツから多額の財政支援を受けたが、「西側のショーウィンドウ」が東ドイツでプロパガンダ効果を発揮することを期したものでもあった。また企業は多額の投資奨励金を受け取っていた。ベルリン手当ドイツ語版と呼ばれる6%の割増賃金は、慢性的な労働力不足を補うものとなっていた。

西ベルリンのクーアフュルステンダムドイツ語版(クーダム)と東ベルリンのアレクサンダー広場はそれぞれにおいて代表的な都心部として発展していった。西ベルリンには1948年に独自の大学としてベルリン自由大学が設立された。さらに大きな建設プロジェクトには、市内自動車高速道路ドイツ語版ベルリン・フィルハーモニーオイローパ・センタードイツ語版ベルリン・ドイツ・オペラ新劇場があった。

東ベルリンでも西に対抗すべく、様々なプロジェクトが進められた。ベルリンテレビ塔共和国宮殿といった大規模建造物の建設、カール=マルクス=アレーの整備や大規模な住宅開発が行われ、これらのプロジェクトはすべての市内地区で進められた。また東ベルリンのおよそ50%の都市部の世帯が東ドイツの国庫から融資を受けていた。

西ベルリンの68年世代

1968年以降、西ベルリンはベルリン自由大学で起こった学生運動の中心地となり、とくにシャルロッテンブルクでは学生の活動が頻繁に行われた。またクロイツベルクのコッホ通りドイツ語版にある保守系マスコミ、シュプリンガー社の本社周辺もデモの中心地となっていた。この運動で争点となっていたのは住民を分断する社会的な対立で、ときに学生と警察とのあいだでのにらみ合いに暴力が伴ったこともある。

1967年6月2日、ベルリン・ドイツ・オペラの近くでイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの訪問を反対するデモに参加していた平和主義の学生ベンノ・オーネゾルクが私服警官カール=ハインツ・クラスに射殺される事件が起こったことにより、翌1968年には西ドイツ全土で学生運動が激化するようになった。

西ベルリンでのテロ攻撃

1970年代初頭、西ベルリンではテロ事件が頻発する。ドイツ赤軍から派生した集団で、ベンノ・オーネゾルクの射殺事件にちなんで名づけられた6月2日運動ドイツ語版が頻繁に活動していた。1974年11月10日、ベルリン高等裁判所長官ギュンター・フォン・ドレンクマンドイツ語版が殺害され、また1975年にはキリスト教民主同盟のペーター・ローレンツドイツ語版がテロリストに誘拐されるという事件も発生している。

不法居住事件

西ベルリンでは空き家への一斉投機制限により住宅が不足し、多くの貧困家庭や移民が困窮することになった。これに対抗して、1970年代末にクロイツベルク東部の旧郵便区域 SO 36ドイツ語版では大規模で盛んな不法居住運動が起こる。1981年7月にはベルリンで不法居住されている住宅は最大の165軒となっていた。これらのうち1984年11月までには賃貸や売買などの契約が成立して不法状態が解決され、残りの住宅では立ち退きの措置がとられた[5]。1980年12月には住居を不法占拠しようとして、不法居住者と警察とのあいだで激しい衝突が起こっていた。また8軒の不法居住の立ち退きに反対するデモに参加していた際、デモ参加者が死亡し、また警察官に突き飛ばされた不法居住者クラウス=ユルゲン・ラタイドイツ語版ベルリン交通局ドイツ語版のバスにひかれて死亡するという事態も起こっていた。

1989年のヴェンデドイツ語版(大転換)を受けて、東ベルリンのベルリン=フリードリヒスハインドイツ語版プレンツラウアー・ベルクで再び不法居住運動が起こる。この運動に対して、とくに東ベルリンの人民警察は積極的に動いて事態は沈静化した。ところが1990年7月に東ベルリン市庁が西ベルリン政府の影響下に置かれたことにより状況は変化した。マインツ通りの立ち退きドイツ語版をめぐって激しい暴動が起こるが、多くの不法居住が以前の不法居住と同じように正常化されていった。その後も残っていた不法居住の住宅はベルリン倫理方針ドイツ語版によって許容されてきたが、1996年から1998年にかけてベルリン州内相イェルク・シェーンボームドイツ語版もとで立ち退きが進められた。

750周年

1982年から1986年にかけて、1987年にベルリン750周年を迎えるにあたって東西ベルリンの各地でさまざまな準備が進められた。たとえば西ベルリンではブライトシャイト広場ドイツ語版ラーテナウ広場ドイツ語版が新装された。また東ベルリンではニコライ地区ドイツ語版が新たに古い街並みを再現し建設された。さらに東西ベルリンでは市街地を通るSバーンUバーンの改修が進められた。


注釈

  1. ^ 現在のベルリン南部のツェーレンドルフドイツ語版や、当時ツェーレンドルフとは別であったシュラハテン湖ドイツ語版沿岸のスラヴ人地域、スラートドルプ(Slatdorp)は一時、レニーン修道院ドイツ語版が所有していた。

出典

  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツ語版ウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001年). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ語). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008年8月24日閲覧。
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995年11月17日). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ語). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008年8月24日閲覧。





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