ベルリンの歴史 ヴァイマル共和政

ベルリンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 07:56 UTC 版)

ヴァイマル共和政

1912年のベルリン・シュピッテルマルクトドイツ語版パウル・ヘーニガードイツ語版作)

1918年12月末、共産党 (KPD) がベルリンで創設される。1919年1月、KPD は政権を奪取しようとスパルタクス団の蜂起実行を試みる。この暴動は失敗し、1月15日にローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトは右派の武装集団によって殺害された。1920年3月、右派ドイツ祖国党ドイツ語版を結成したヴォルフガング・カップは政府の転覆を図り、ベルリン駐屯部隊に側面から攻撃させて、政府ビルを占拠した(なお当時のヴァイマル共和国政府はすでにベルリンを逃れていた)。しかしこのクーデターはゼネラル・ストライキによって阻まれた。

1920年10月1日、行政区新設法(Gesetz über die Bildung einer neuen Stadtgemeinde)により大ベルリンが設置されることになった。これにより旧ベルリンは7市 (Stadtgemeinde)(シャルロッテンブルクドイツ語版、ケーペニック、リヒテンベルクノイケルン、シェーネベルク、シュパンダウ、ヴィルマースドルフドイツ語版)59村 (Landgemeinde)、27領地区域 (Gutsbezirk) と統合された。このとき大ベルリンの人口は3,804,048人に上った。

1922年、ベルリンで外相ヴァルター・ラーテナウが殺害される。ベルリンはこの事件に衝撃を受け、およそ50万人の市民が葬儀に参列した。

ヴァイマル共和政期の景気は惨憺たるものであった。ドイツはヴェルサイユ条約により莫大な賠償金を支払わなければならず(第一次世界大戦の賠償を参照)、政府は貨幣を多く発行することで問題を解決しようとした。さらに賠償支払い問題に加えて、1923年に発生したハイパーインフレーションは、とりわけ労働者、給与所得者、年金生活者を苦しめるものとなった。しかし1924年になると連合国のひとつであるアメリカ合衆国支援策を講じたり、財政政策を改善すると状況が好転し、ベルリンは最高潮、いわゆる「黄金の20年代」を迎える。このころのベルリンはヨーロッパ最大の産業都市となっていた。

文化の面でも、建築家ヴァルター・グロピウス、物理学者アルベルト・アインシュタイン、画家ジョージ・グロス、作家アルノルト・ツヴァイクベルトルト・ブレヒトクルト・トゥホルスキー、俳優マレーネ・ディートリヒ、映画監督フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウフリッツ・ラングといった人物が集まった。クラシック音楽でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いるヴィルヘルム・フルトヴェングラーやベルリン市立歌劇場のブルーノ・ワルターベルリン国立歌劇場エーリヒ・クライバーといった当時の世界でも代表的な指揮者たちが活躍し、ベルリンはヨーロッパにおいて文化の中心となった。この時代のナイトライフは映画『キャバレー』で表現されている。

1924年、テンペルホーフ空港が開港する。また同年、初のベルリン国際無線展示会ドイツ語版メッセ会場ドイツ語版で開かれた。ベルリンはドイツ国内で2番目に大きな内陸港となった。1924年からはベルリン市内の鉄道(市街線、環状線、近郊線)の電化が進められ、1930年にSバーンとして統合された。このようなインフラストラクチャーはベルリン400万市民の生活に欠かせないものであった。1926年にはベルリン電波塔ドイツ語版で第3回無線展示会が開かれる。1930年から1933年のあいだには、のちに技師となるヴェルンヘア・フォン・ブラウンが所属する宇宙飛行協会テーゲルドイツ語版ロケット発射場で液体燃料ロケットの初の発射実験を行った。

しかしこのような黄金期は1929年の世界恐慌で終焉を迎える。1932年7月20日、プロイセン州オットー・ブラウン政権がプロイセン・クーデターによって倒れ、共和政は極左・極右の影響を受けて崩壊しようとしていた。11月には共産党が市議会で単独第一党となる。そして1933年1月30日ヒトラー帝国首相に任命される。


注釈

  1. ^ 現在のベルリン南部のツェーレンドルフドイツ語版や、当時ツェーレンドルフとは別であったシュラハテン湖ドイツ語版沿岸のスラヴ人地域、スラートドルプ(Slatdorp)は一時、レニーン修道院ドイツ語版が所有していた。

出典

  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツ語版ウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001年). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ語). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008年8月24日閲覧。
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995年11月17日). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ語). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008年8月24日閲覧。





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