ベルリンの歴史 プロイセン王国期

ベルリンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 07:56 UTC 版)

プロイセン王国期

1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はプロイセン王として戴冠され、フリードリヒ1世となる(ただし当時のプロイセンは全域がブランデンブルク選帝侯の支配下に置かれていなかった)。フリードリヒ1世はまずプロイセン全土の統一に努めようとした。フリードリヒ1世はベルリン西部にシャルロッテンブルク宮殿を造営し、また1707年までにはベルリン王宮を拡張している。また1709年1月18日にフリードリヒ1世は勅令で、従来独立していたベルリン、ケルン、フリードリヒスヴェルダー、ドロテーエンシュタット、フリードリヒシュタットを1710年1月1日までに統合して王都ベルリンとすることを明らかにした。また城門の周囲にはすでに新たに郊外地域の開発が進められていた。

1713年、フリードリヒ1世の子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はプロイセン王位を継承し、財政を立て直してプロイセン主力軍の整備に努めた。1709年にはベルリンの人口が55,000人ほどとなっており、そのうち5,000人が兵役に就いていたものが、1755年には人口が10万人を突破し、26,000人の兵力を持つようになっていた。さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世はベルリン市の周囲を木製の壁で囲み、14の門を築いた。

アブラハム・グイベルト・ドゥザブローによるベルリンの都市計画図(1737年、図面の上が南)
ブランデンブルク門(1832年)
シャルロッテンブルクとシュパンダウ(1842年)

1740年フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)がプロイセン国王に即位する。フリードリヒ2世はヴォルテールと文通していたこともあって「哲学王」(Philosoph auf dem Thron) とも称される。フリードリヒ2世の統治下においてベルリンは啓蒙思想の中心地となり、このころのベルリンでは哲学者モーゼス・メンデルスゾーンが名声を高めていた。フリードリヒ2世の後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代になると経済が停滞する。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は啓蒙思想を嫌い、検閲を実施して抑圧的な政策を執る。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のもとでベルリンを囲む防壁が石でできた稜堡式城郭に作り変えられる。18世紀末には新たに、現在のベルリンのランドマークとなっているブランデンブルク門が建造される。

1806年、ベルリンはナポレオン・ボナパルトに占領される。これにより次第に民主化がもたらされていき、ベルリンは自治権を得るようになる。1809年には初のベルリン市議会選挙が行われるが、このとき投票権が与えられたのは富裕層の男性のみであった。1810年、ベルリン大学(のちのベルリン・フンボルト大学)が創立され、初代総長には哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテが就く。1810年から1811年の間にはハインリヒ・フォン・クライストによりベルリンで初となる日刊紙『ベルリン夕刊新聞ドイツ語版』が発行された。1812年になるとユダヤ人に対して居住権が認められるようになる。しかし、1814年にフランスが敗北することで、これらの変革の動きは終わりを迎えることになった。

19世紀前半には産業革命が起こり、人口が20万から40万に急増する。ベルリンはヨーロッパでもロンドンパリサンクトペテルブルクについで4番目に大きい都市となる。1838年にはプロイセンで初となる鉄道会社ベルリン-ポツダム鉄道ドイツ語版が開業し、ポツダム駅ドイツ語版の設置は鉄道の街ベルリンを急速に発展させるきっかけとなった。

ほかのヨーロッパの都市と同様に、1848年はベルリンにおいても革命の1年であった。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の時代にはいわゆる「バリケード蜂起ドイツ語版」が起こるもこれは鎮圧される。しかし情勢は深刻なものとなり、1848年6月14日にはベルリン武器庫襲撃ドイツ語版が発生し、略奪が起こった。この事件を受けてベルリンの自治は、選挙に参加するための納税額の下限を引き上げられて制限されることになった。このためベルリン市民で選挙に参加できたのは全人口のわずか5%に抑えられた。この選挙制度は1918年まで継続された。

1861年ヴィルヘルム1世がプロイセン国王に即位する。ヴィルヘルム1世の治世下では当初、自由化が期待された。ヴィルヘルム1世は自由主義系の大臣を任命し、また赤の市庁舎の建設を進めた。1861年、ベルリンはヴェディングドイツ語版モアビートドイツ語版を編入し、また郊外のテンペルホーフドイツ語版シェーネベルクドイツ語版へと拡張した。

この時期のベルリンの人口急増は大きな問題を惹き起こすことになった。1862年には、ジェームス・ホーブレヒトがベルリンとその周辺を道路や鉄道で結ぶ、いわゆる「ホーブレヒト計画ドイツ語版」を立案した。またルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウ参加のもと、上下水道施設が整備され、ベルリンは近代都市としての条件を整えていった。


注釈

  1. ^ 現在のベルリン南部のツェーレンドルフドイツ語版や、当時ツェーレンドルフとは別であったシュラハテン湖ドイツ語版沿岸のスラヴ人地域、スラートドルプ(Slatdorp)は一時、レニーン修道院ドイツ語版が所有していた。

出典

  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツ語版ウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001年). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ語). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008年8月24日閲覧。
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995年11月17日). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ語). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008年8月24日閲覧。





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