ベルリンの歴史 「第三帝国」

ベルリンの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 07:56 UTC 版)

「第三帝国」

共産主義者や社会主義者の牙城であったベルリンがナチズムの中心になったことはなく、ナチズムはもっぱらバイエルンにその起源をたどることができる。ベルリンはヴァイマル共和国とナチス・ドイツの両方の首都となった。

1933年2月27日、ドイツ国会議事堂放火事件が起こる。ナチ党はこの事件を利用して基本権を停止させたことにより、事実上ヴァイマル憲法は効力を失った。

1933年ごろのベルリンにはドイツ系ユダヤ人の3分の1にあたる、およそ16万人のユダヤ人が居住しており、ベルリン市の人口の4%を占めていた。その3分の1は東ヨーロッパから移り住んできた貧困層で、おもにアレクサンダー広場付近のショイネン地区ドイツ語版で暮らしていたが、ユダヤ系住民はナチス政権から迫害を受けていた。1933年3月にはユダヤ系の医師がベルリン大学医学部付属病院シャリテから退職を余儀なくされ、4月にはいるとナチス政府は「ユダヤ人ボイコット運動」を唱え、ユダヤ系以外の市民がユダヤ人の経営する商店での購入を妨害した。

イエス=キリスト=教会 (ダーレム)
ベルリンダーレム地区ドイツ語版
あり、ナチスに抵抗した告白教会の中心的存在だった。

1936年、ベルリンで第11回夏季オリンピック大会が開催される。ナチスは1933年以降、ベルリンでオリンピックが開催されることをプロパガンダとして利用した。国際社会に演出した「普通の国」に傷をつけないように、従来までのユダヤ人に対する差別や迫害政策を緩和したりした。たとえば一時的に Für Juden verboten (ユダヤ人禁止)の看板を撤去するといったことが行われた。1937年、ベルリン700周年祝賀行事にあわせてナチスのプロパガンダ集会が開催された。

このころになるとナチスは世界首都ゲルマニア計画を打ち出し、ベルリンの拡張に着手した。建築家アルベルト・シュペーアの計画では、ベルリンに巨大な通りを造り、これに沿ってモニュメントとなる建築を配置するものだった。この計画のほとんどは実現されなかったが、その名残りとなる構造物は現在もなおベルリン市内で目にすることができる。

1938年11月9日から10日にかけて、いわゆる「水晶の夜」事件が起こり、シナゴーグに火が放たれ、またユダヤ系商店や居住地域は破壊されたり、ユダヤ人が拘束されたりした。1939年ごろのベルリンにはおよそ75,000人のユダヤ人が住んでいたが、1941年10月18日、グルーネヴァルト駅ドイツ語版から、ユダヤ人を移送する一番列車がリッツマンシュタットに向け出発した(ウッチ・ゲットー参照)。これは後に計63本編成されることになる。またホロコーストが始まった。5万人のユダヤ人が拘束されて強制収容所に送られ、その多くが殺害された。ホロコーストに関して歴史上重要な出来事として、1942年にヴァンゼー湖畔で開かれたヴァンゼー会議が挙げられる。ここでは国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが主導してホロコーストの実行が決定された。このようなことが起こってもベルリンでは1,200人を超えるユダヤ人が身を隠して生き残ることができた。

ベルリンから北西に30キロ離れたオラーニエンブルク近くにはザクセンハウゼン強制収容所があり、おもに政治犯やソヴィエト赤軍の捕虜が収容され、1万人がそこで死亡した。ザクセンハウゼン強制収容所には付近に工場が併設されており、そこで収容されていた人々には強制労働が課された。このような収容所はベルリンにも数多く存在していた。

1939年、第二次世界大戦が開戦するが、当初ベルリンは戦争の影響をほとんど受けていなかった。1940年にはベルリンにイギリスによる初の空襲がなされるが、爆撃対象がわずかにはずれていたため初期の被害は比較的小さなものであった。しかしアメリカが参戦するとベルリンの被害の範囲は拡大していった。イギリスが夜間にベルリンに向かう一方で、アメリカが昼間にベルリン上空を飛行するようになったことで、爆撃はほぼ24時間中行われるようになった。1945年3月、1,250機の爆撃機がベルリンを攻撃し、およそ2万人のベルリン市民が死亡、150万人が住居を失った。ベルリン中心部は完全に破壊された一方で、郊外部の被害は少なかった。こういったベルリン空襲で、平均するとベルリン市の5分の1(そのうち中心部が50%を占める)が破壊された。

1943年11月23日夜の空襲によって大きな損害を受けたカイザー・ヴィルヘルム記念教会。戦後、旧教会堂の廃墟部分を残したまま新教会堂と新鐘楼、小礼拝堂を新築した。
第二次世界大戦におけるベルリン市内の建物への被害
被害状況 % 損失の度合
全壊 11.6 100
深刻な破壊 8.3 75
復旧可能な破壊 9.7 30
軽微な破壊(居住可能) 69.4 10


交通機関もまた大きな被害を受けており、運行状態も戦争の終結まで壊滅的なものであった。ベルリンに投下された爆弾は45万トンにも上った。1945年4月21日、ソヴィエト赤軍とポーランドの部隊がベルリンに侵攻した(ベルリン市街戦)。1945年4月30日、ヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺し、5月2日、ベルリン防衛軍は降伏し、ベルリンは陥落した。ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。

戦争終結後、ベルリンには瓦礫と灰が積もっていた。市街地の28.5平方キロメートルが廃墟となり、60万件の住居が全壊、10万件が損傷し、百貨店も2軒に1軒は崩壊していた。1939年の開戦から数えると100万人もの市民が戦死、逮捕、または避難によってベルリンから失われた。


注釈

  1. ^ 現在のベルリン南部のツェーレンドルフドイツ語版や、当時ツェーレンドルフとは別であったシュラハテン湖ドイツ語版沿岸のスラヴ人地域、スラートドルプ(Slatdorp)は一時、レニーン修道院ドイツ語版が所有していた。

出典

  1. ^ Hofmann, Michael; Romer, Frank (Deutsch). Vom Stabbohlenhaus zum Haus der Wirtschaft. Ausgrabungen in Alt-Cöln, Breite Straße 21 bis 29. Berlin: Schelzky & Jeep. ISBN 978-3895411472 
  2. ^ Deutschland: Berlin älter als bisher angenommen (ドイツ語版ウィキニュース)
  3. ^ Waack, Ulrich (2005). “Die frühen Herrschaftsverhältnisse im Berliner Raum - eine neue Zwischenbilanz der Diskussion um die "Magdeburg-Hypothese"”. Jahrbuch für brandenburgische Landesgeschichte (56/2005): pp. 7-38. ISSN 0447-2683. 
  4. ^ Thies, Ralf (2001年). “Schriftenreihe der Forschungsgruppe "Metropolenforschung" des Forschungsschwerpunkts Technik - Arbeit - Umwelt am Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung” (PDF) (ドイツ語). Wissenschaftszentrum Berlin für Sozialforschung. 2008年8月24日閲覧。
  5. ^ Rekittke, Volker; Becker, Klaus Martin (1995年11月17日). “[http://squat.net/archiv/duesseldorf/Dipl_Int-1_4-2.html Politische Aktionen gegen Wohnungsnot und Umstrukturierung und die HausbesetzerInnenbewegung in Dusseldorf von 1972 bis heute]” (ドイツ語). 1.4.1 Häuserkämpfe in Berlin 1979 - 81. 2008年8月24日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ベルリンの歴史」の関連用語

ベルリンの歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ベルリンの歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのベルリンの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS