フジノマッケンオー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 14:00 UTC 版)
経歴
競走馬時代
1993年12月4日に阪神競馬場でデビュー。武豊を鞍上に出走した新馬戦は1番人気に応えられず2着となるが、12月11日に再び1番人気で出走した新馬戦では2着に1馬身差をつけ勝利。その後スプリングステークスまで、デビュー以来6連続連対を記録する。
1994年の皐月賞では全出走馬の中で最速の上がり3ハロン走破タイムを記録したものの、ナリタブライアンの3着に敗れた。その後NHK杯6着、東京優駿、神戸新聞杯でともに4着に敗れた後は、1600mのマイル以下の距離のレースに限定して出走するようになる。10月8日には神無月ステークスで半年以上振りの勝利を挙げると、翌11月5日の根岸ステークスも勝利し2連勝で重賞初制覇を果たす。3番人気で出走した11月20日のマイルチャンピオンシップ(1着ノースフライト)では2着のサクラバクシンオーにクビ差届かず、これが生涯最後の馬券圏内に入ったG1レースとなった。
年が明けて1995年はフェブラリーステークスから始動するものの、1番人気に応えられず15着。さらにマイラーズカップ、ダービー卿チャレンジトロフィーとこちらも1番人気に支持されながら5着、6着と勝ちきれぬまま翌1996年3月3日のマイラーズカップまで重賞含む10連敗を喫した。しかし4月6日のダービー卿チャレンジトロフィーではビコーペガサス、ナイスネイチャらを破り、2着サイレントハピネスにハナ差で勝利し1年半ぶりの重賞制覇を果たす。その後高松宮杯、安田記念とGIを2戦するも敗れるが、9月29日にはセントウルステークスを制覇し重賞3勝目を挙げる。だが、この後年内はスワンステークスの5着からマイルチャンピオンシップ14着、スプリンターズステークス10着と連戦したGIで2桁着順と勝ちきれない競馬が続いた。
1997年は5月5日の中央交流競走の群馬記念から始動するも5着。この後も交流戦を2戦、函館スプリントステークスを使うもかろうじて6着~4着という成績に留まった。しかし、8月11日の盛岡競馬場の中央交流戦であるクラスターカップでトシヴォイスの2着に入ると、続いて9月15日のさきたま杯で勝利。約1年ぶりの重賞制覇で重賞4勝目を挙げたが、これが最後の重賞勝利となった。その後は年が明けて1998年のフェブラリーステークスまで5戦重賞のみに出走したものの入着がやっとで、2月7日のすばるステークス4着を挟み3月8日のマイラーズカップも10着に敗れる。しかし、3月24日の黒船賞ではリバーセキトバの2.1/2馬身の2着に入り、馬券圏内に入ることが出来た。だがその後は重賞4戦をして勝ち星を挙げることは出来ず、6月6日のエプソムカップ16着を最後に中央登録を抹消。同年中に岩手競馬へ移籍した。
盛岡競馬場へ移籍後は勝利を挙げることはできず、後に荒尾競馬場にも移籍。しかし最終的は1勝も挙げられぬまま2000年に競走馬を引退した。
引退後
引退後は種牡馬入りするも、牝馬に興味を示さないため[要出典]種付けすることができず、そのまま種牡馬登録を抹消された。その後名馬のふるさとステーションに移動、同地が閉鎖されると日高ケンタッキーファームに移動したが、原因不明の病気になった事により、本馬のファンであった夫婦の所有となった上で生まれ故郷の本桐牧場へと戻り[3]、余生を過ごすこととなった。
2013年3月8日に結腸破裂のため22歳で死亡した[4]。同牧場にはフジノマッケンオーの墓碑が建立されている。
固有名詞の分類
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