チェーカー
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歴史
設立
1917年の十月革命翌日以降、官僚によるゼネラル・ストライキが拡大した。これにボリシェヴィキは恐怖し、ストライキの拡大を食い止める必要に迫られた。12月に入ると、権力の混乱防止のためボリシェヴィキは十月革命前夜に設立した軍事革命委員会の解体を決めた。いかにこの危機を乗り切るかが焦点となった。
レーニンはフランス革命時の革命裁判所検事であるアントワーヌ・フーキエ=タンヴィルのような人物が必要だと感じていた。12月2日に軍事革命委員会のトップだったフェリックス・ジェルジンスキーを「断固たるプロレタリア的ジャコバン」に指名し、12月6日に彼に反ゼネストのための特別委員会の設立を任せた[4]。レーニンは「サボタージュと反革命と闘うための『例外的な手段』」を取るよう文書で指示した。
12月20日、ジェルジンスキーは特別委員会設立の草案を人民委員会議に提出し承認を受けた。内容は当初非公開だったが、1922年2月10日になってメンバーの1人マルティン・ラーツィス(Martin Latsis)が政府機関紙『イズベスチヤ』で公開した。その内容は以下の通りである。
- 同委員会を反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:
- 誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動とサボタージュの企てと行動を監視し、これを撲滅すること。
- 全てのサボタージュ分子と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。
- 委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:
- 情報部
- 組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局
- 取締部
- 委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、サボタージュその他、右翼エスエル、サボタージュ参加者、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵リストの公表などが講じられる。
- 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。
赤色テロル
十月革命後、反ボリシェヴィキの西側諸国の干渉によるロシア内戦が勃発すると、チェーカーはレーニンにより、裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。これがのちの粛清の引き金となる。1918年2月、ドイツ軍に攻撃されると、即決裁判による処刑が合法化された[4]。
当初チェーカーは組織的体系も整っておらず人数も100人足らずの少数であったが、次第に組織も整備され人員も増やされてゆく。1918年4月11日から12日の深夜にかけてチェーカーはモスクワのアナーキストが立てこもる20軒の住居を襲撃し520人を拘束、25人を処刑した。これがチェーカーによる最初の組織的かつ計画的な行動とされている。
レーニンは1918年6月に一時期廃止された死刑を復活させた。
1918年7月17日のロシア皇帝ニコライ2世らロマノフ家の処刑はレーニンが指示したが、これは赤色テロの先駆けとなった[4]。ロマノフ家の処刑にはヤコフ・ユロフスキーら3人のチェキストが関与していたとされ、亡命できた者を除いてミハイル大公ら皇帝の親族や従者に至るまで全員が惨殺された。ここにおいて、テロルの対象が特定の個人の行為ではなく、個人の属する「階級」となった[4]。これは、1917-18年の革命初期に散発的に発生していたテロルとは性格の異なるものであった[4]。
1918年7月、社会革命党(SR、エス・エル党)の蜂起がおき、8月にはチェーカーのウリツキーが暗殺され、レーニンへの暗殺未遂もおこると、9月5日、レーニンは赤色テロルを宣言し、多数が処刑されていった[4]。
チェーカーは1918年夏の農民反乱の鎮圧でも活躍した[4]。
1919年5月15日、労農国防会議の決定により、チェキストには赤軍兵士に準じて最上級の食糧配給券が支給されることとなった。粛清に反対していた左翼エスエル出身の司法人民委員イサーク・シテインベルク(Isaac Steinberg)はチェーカーを自身の監督下に置くよう要求したが、ジェルジンスキーはチェーカーの威信に傷がつくとして拒否し、チェーカーはあくまで党の監督下にあると主張した。
チーストカ(粛清)
チェーカーは収容所管理や、教会での分裂工作も行った[4]。1920年末、チェーカーの幹部ラツィスは「チェカーの行動は、反革命が根をおろしてきたソヴィエト生活のすべての分野にまでひろがらなければならない」「チェカーの活動範囲からまぬがれるところはどこにもない」と述べており[4]、チェーカーはソ連全域の全ての生活を監視するとされた。
1921年の党員の点検「チーストカ(粛清)」でチェーカーは、党員の過去情報を提供した[4]。こうした党員の点検は、のちにスターリンによって拡大され、大粛清となり、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑され、16万余が獄死することとなった[7]。
GPUへの改組
内戦が終結した1922年2月8日、チェーカーはGPUと改名し、1934年にはNKVDの一部局である国家保安総局となる。その後変遷を経てスターリンの死後、1954年に再び独立してKGBとして存続する。KGBおよび共産圏の秘密警察はチェーカーを模範としており、残虐な尋問・拷問・処刑などの手法が受け継がれた。
注釈
出典
- ^ a b c d 木村英亮. “チェカー ちぇかー Чека Cheka ロシア語”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年10月12日閲覧。
- ^ a b IPAは国際音声記号を指す。
- ^ a b 百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版、コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j k l 石井規衛「補説8チェカーと赤色テロル」『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、1997年,p84-85.
- ^ 『チェーカー』 - コトバンク
- ^ 下斗米伸夫『図説 ソ連の歴史』河出書房新社、2011年、p.15-16.
- ^ 百科事典マイペディア「大粛清」(コトバンク)
- ^ a b c Lincoln (1999).
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- ^ 1918年に6185人(6,300人:1-6月で22人、7-12月で6,000人以上)、1919年に3456人(19年7月までで2089人)で、合計9,641人が処刑された。
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