スターリン批判 スターリン批判(1956年)

スターリン批判

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スターリン批判(1956年)

フルシチョフ報告の経緯

ポスペーロフ委員会による調査報告は、ソ連共産党第20回大会を直前に控えた1956年2月9日に中央委員会幹部会で行われた。同報告は国家保安委員会КГБ)の資料に基づいて、(1) 193540年のあいだに1,548,366名が逮捕され、688,503名が銃殺されたこと、(2) 粛清は共産党・国家機関・地方機関・経済組織・内務人民委員部などの指導者層を広く呑み込んだこと、(3) 特に1934年全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)第17回大会英語版で選出された中央委員と同候補139名のうち98名が銃殺され、大会代議員およびオブザーバー1,966名のうち1,108名が逮捕され、うち848名が銃殺されたこと、(4) 処刑された者のなかにはドイツ人ポーランド人ラトビア人朝鮮人など多くの外国人が含まれていたこと、(5) 大量逮捕にあたって反ソ団体のでっち上げが行われ、逮捕者には暴行・拷問・脅迫など違法な手段が系統的に用いられたこと、(6) こうした大量抑圧がスターリンの指示・承認のもとに行われていたことを明らかにした[8]

スターリンによる大粛清の全貌を明らかにしたこの報告は幹部会員に衝撃を与え、フルシチョフやミコヤンは党大会で報告すべきであると主張したが、この時点では誰がどのように報告を行うかは決まっていなかった。大会前日の2月13日に開かれた幹部会で、この問題についての報告をフルシチョフが行うこと、この報告を大会の秘密会で行うことを決定した。同日に行われた中央委員会総会は、内容が伏せられたうえでフルシチョフ報告が行われることを承認した。このように、フルシチョフ報告は大会の直前になって行うことが決められたのである[9]。秘密報告の文案づくりは大会会期中に行われ、まずポスペーロフが下書きし、これにフルシチョフが口述筆記で補足し、ドミトリー・シェピーロフ(モロトフに代わる新外相)やミハイル・スースロフ(党幹部会員)が加筆・修正し、報告2日前の2月23日に完成し幹部会員に回覧された[10][11]

第20回党大会の記念切手。レーニン像が描かれる一方、スターリンは描かれていない。

ソ連共産党第20回大会

1956年2月14日から開催されたソ連共産党第20回大会は、スターリンが死去して最初の大会であり、個人独裁体制から集団指導体制への転換をはじめ、国内政策や外交政策などの新たな路線の決定など広い意味での「非スターリン化」が予定されていた大会であった。大会初日に行われた党第一書記のフルシチョフによる中央委員会報告(一般報告)では、外交政策としては平和共存路線を提起し、帝国主義諸国とのあいだの戦争を防止する可能性があること、各国が社会主義に移行するにあたり暴力革命だけでなく議会制民主主義による平和革命など多様な可能性があることなどを述べ注目された。国内政策としてはベリヤを大粛清の担い手として非難して法治主義を強化することを述べるとともに、個人崇拝マルクス・レーニン主義の精神とは無縁であって党内の集団指導と人民大衆の役割が重要であることなどを指摘した[12]

大会討論では、レオニード・ブレジネフ(カザフスタン党第一書記)、А.Б.アリストフ(党中央委員)、スースロフ、マレンコフが中央委員会報告に沿って法治主義や個人崇拝との闘争について発言を行った。特に強い調子で発言したのがミコヤンであり、過去20年間における個人崇拝と集団指導の欠如を指摘し、スターリンを名指しして著書の内容を批判してスターリン理論の修正を訴えた。また、歴史学者のА.М.パンクラートヴァ(『歴史の諸問題』編集長、党中央委員)は、党史研究において個人崇拝と闘争する必要があることを述べ、『レーニン全集』第4版の編纂上の問題やスターリン時代の歴史評価を修正するべきことについて発言した。他方で、モロトフ(前外相、党幹部会員)は個人崇拝の問題に一切触れず、ガガノーヴィチ(第一副首相、党政治局員)はこの問題は解決済みであるとほのめかすなど、非スターリン化に消極的な党幹部もいた[13]

秘密報告の内容

フルシチョフとスターリン(1936年撮影)。フルシチョフがスターリンの側近であったことは周知の事実であった。

フルシチョフの秘密報告「個人崇拝とその結果について」は、1956年2月25日に行われた。会議は秘密会とされ、これまで出席していた外国の共産党・労働者党の代表は招かれていない。秘密報告は、スターリンの名前を挙げて、個人崇拝・独裁政治による粛清の事実および戦争指導や内外政策上の問題点を公表した。特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったセルゲイ・キーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。フルシチョフの秘密報告の要旨は以下の通りである(下記外部リンク参照、共産主義者特有の言い回しが随所に登場するが、基本的にそのまま引用した)。

  1. 個人崇拝はカール・マルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニンの死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すどころか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。
  2. すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指摘し、彼を書記長職から異動させることを提案していた。レーニンの死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。
  3. 1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。
  4. スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。
  5. アドルフ・ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義抹殺の意図を隠さなかったにもかかわらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追放、逮捕、さらには処刑に追いやった。大祖国戦争の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。
  6. スターリンの専横ぶりは、第二次世界大戦後のソ連と社会主義兄弟国との関係にも悪影響を及ぼした。その最も際立った重大な例はヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化であり、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂し、ユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。
  7. こうした個人崇拝を政治局員たちが止められなかった理由は、スターリンが大きな声望と共感と支持を持っていたこと、抵抗すれば弾圧の対象となったこと、政治局会議すらたまにしか開かれなかったこと、政治局員にも疑いの目が向けられていたことが挙げられる。

報告では、ガガーヴィチ、モロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤン、マレンコフがスターリンの協力者として登場していたが、その一方でモロトフ、ヴォシーロフ、ミコヤンは弾圧を受けそうになった人でもあると指摘されている。さらに、フルシチョフとブルガーニンが粛清に批判的な会話をしていたというエピソードが盛り込まれた[14]。しかし、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に動いたのかを明言しなかった。大粛清に積極的に加担し、自身の出世に利用した点も考慮する必要があると言える(もっとも、スターリンの生前は「NO」ということはすなわち「死」を意味することであり、一般国民だけでなく党や政府などスターリンに仕える立場にあるものまで生命の危険に晒されていた)。そして、演説の最後はこの報告を党外や新聞に洩らしてはいけないと強調した。

フルシチョフの秘密報告に対して、あまりの内容に会場から声も出なかったという。発言の通告はなかったと思われ、大会の議長を務めていたブルガーニンが「個人崇拝の完全な克服」、「その諸結果の一掃」、「党指導の集団性の厳密な実践」などの用意されていた決議を提案し、満場一致での採決を確認した。また、フルシチョフ報告および決議を公開せず、党組織には伝達することを決議した。これで秘密会議は終わり、大会は最後の議事日程に移った[15]

報告の広まり

ポーランド統一労働者党によって関係者向けに作られたフルシチョフ報告の冊子(1956年)

第20回党大会で決められたように、フルシチョフ報告は公表されず、ソ連共産党の内部に伝えられるものであった。公式発表としては、党機関紙『プラウダ2月27日付の論説「レーニン主義の旗のもとに」において、中央委員会報告に基づいて個人崇拝批判の問題を特に重要であるとした。大会に参加した外国の共産党幹部のうち13名に対して秘密報告と決議を見せることを決定し、3月1日付で演説内容を印刷した[16]。ソ連共産党の外国共産党・労働者党連絡部が作成した13名のリストによると、序列第1位が中国共産党の朱徳、以下、フランス共産党モーリス・トレーズイタリア共産党パルミーロ・トリアッティチェコスロバキア共産党アントニーン・ノヴォトニーブルガリア共産党のヴルコ・チェルヴェンコフ、さらにアルバニア労働党ハンガリー勤労者党ルーマニア共産党ポーランド統一労働者党ボレスワフ・ビェルトドイツ社会主義統一党、朝鮮労働党の崔庸健モンゴル人民革命党ベトナム労働党チュオン・チンが並んでいる。また、特に重要な朱徳やトレーズには事前に見せた可能性がある[17]。これ以外の党に対しても、重要度に応じて順次閲覧をさせたが、ノルウェー共産党、スウェーデン共産党、日本共産党などには閲覧は行われていない[18]

フルシチョフ報告は、各国の共産党において内容を広められた。大会後の最初の外国訪問先であるポーランドでは、スターリン批判の衝撃のあまりモスクワ心臓発作を起こして死亡したポーランド統一労働者党第一書記のボレスワフ・ビェルトの後継者を選ぶ会議にフルシチョフが参加し、スターリン批判の意義を説明する演説を3月20日に行った。同党はフルシチョフ報告のポーランド語訳を作成・配布し、東欧諸国でもっともスターリン批判が知られることとなった[19]。また、ソ連による国際共産主義運動の見直しの一環として、4月17日コミンフォルムの解散と機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために!英語版』の発行停止を関係8党中央委員会と共同で声明した。6月に入るとユーゴスラビアのチトー大統領がモスクワ入りし、スターリン批判を踏まえてソ連・ユーゴの両政府および両党の関係回復について6月20日に合意した[20]

ソ連国内では、フルシチョフ報告が広く知られるような措置が取られた。3月5日に開かれた党幹部会は、秘密報告を「印刷禁止」として党州委員会・地方委員会と共和国党中央委員会に送り、「すべての党員とコムソモール員、また非党員の労働者、職員、コルホーズ農民の活動分子に知らせる」ことが決定され、3月7日付で印刷に回された。パンフレットには通し番号が振られ、返却が義務付けられた[21]。こうした措置もあって、一様ではないにせよフルシチョフ報告はソ連国民に広く知られることとなった。会合の場でパンフレットが読み上げられたり、党幹部が講演に派遣されたりした。知識人のなかには自主的な動きを試みた者もいたが、共産党はその統制を図った。10月23日ハンガリー動乱が起こると統制強化は決定的となり、公式発表以上のスターリン批判は封じ込められることとなった[22]

スターリン批判が世界中に知られるきっかけとなったのは、6月4日アメリカ国務省がフルシチョフの秘密報告の英文訳を発表したことである。これは3月1日付のパンフレットに基づくものであった[23]中央情報局(CIA)長官アレン・ウェルシュ・ダレスはこの演説内容を入手するために、金に糸目をつけなかったという[24]。『ニューヨーク・タイムス6月5日付はこの全文を紙面に掲載し、大きな反響を与えた[25]。ソ連以外の多くの共産党・労働者党の幹部はフルシチョフ報告の存在を知っていたため、党員や国民への説明に苦慮した。イタリア共産党書記長のトリアッティやアメリカ共産党書記長のユージン・デニスはスターリン批判を発表し、フランス共産党はアメリカ国務省が秘密報告を発表したことを遺憾とした。日本共産党は秘密報告の公表を黙殺した[26]。こうした事態に対してソ連共産党も対応を余儀なくされ、6月30日の中央委員会決定「個人崇拝とその諸結果の克服について」(О преодолении культе личности и его последствий)が7月2日に発表された。この文書では、個人崇拝が起こった理由をソ連建設の客観的・歴史的条件とスターリンの個人的資質に求め、スターリンの独裁的支配にもかかわらず党内には「レーニン的中核」が存在していたこと、「個人崇拝の非難をソビエト社会制度の本質に求めようとするのは、たいへんな間違い」であるとし、共産党とソビエト政権を擁護した[27]


注釈

  1. ^ ただし、石堂清倫の証言によれば、『戦後革命論争史』の内容は内野壮児小野義彦、勝部元、石堂らの研究会の討論がもとになっており、上田耕一郎がこれをまとめたものだという(石堂清倫「増山太助『戦後期左翼人士像』を読む」『図書新聞』第2507号、2000年10月28日付)。

出典

  1. ^ 和田春樹、2016年、p.10
  2. ^ 下斗米伸夫、2004年、2-3章;下斗米伸夫、2011年、4-5章
  3. ^ 和田春樹、2016年、序章
  4. ^ 和田春樹、2016年、1-2章
  5. ^ 和田春樹、2016年、3章
  6. ^ 和田春樹、2016年、4-5章
  7. ^ 和田春樹、2016年、6章
  8. ^ 和田春樹、2016年、pp.288-91
  9. ^ 和田春樹、2016年、pp.292-95
  10. ^ 和田春樹、2016年、pp.307-09
  11. ^ 外部該当リンク
  12. ^ 和田春樹、2016年、pp.297-99
  13. ^ 和田春樹、2016年、pp.299-302, 304-05
  14. ^ 和田春樹、2016年、pp.312-13
  15. ^ 和田春樹、2016年、p.314
  16. ^ 和田春樹、2016年、p.315
  17. ^ 下斗米伸夫、2011年、p.291. なお、下斗米(2004年、p.101)では、13名の外国党代表者が演説を事前に見せられたとしていたが、2011年の著書でこれを修正している。
  18. ^ 下斗米伸夫、2011年、pp.291-92
  19. ^ 和田春樹、2016年、pp.328-29
  20. ^ 和田春樹、2016年、pp.348-49
  21. ^ 和田春樹、2016年、pp.315-16
  22. ^ 和田春樹、2016年、8-9章
  23. ^ 和田春樹、2016年、pp.349, 315
  24. ^ 落合信彦『21世紀への演出者たち CIA vs KGB』 (集英社文庫[お-5-5]、1984年、初出1981年)、p.97 ISBN 4087507645
  25. ^ Text of Speech on Stalin by Khrushchev as Released by the State Department, The New York Times, June 5, 1956.
  26. ^ 和田春樹、2016年、pp.350-51
  27. ^ 和田春樹、2016年、pp.355-58
  28. ^ 松戸清裕、2011年、p.104
  29. ^ 保阪正康『昭和の空白を読み解く――昭和史 忘れ得ぬ証言者たち Part2』(講談社文庫[ほ-10-12]、2006年、初出2003年)、p.295 ISBN 978-4062754897
  30. ^ 雑誌・幻想と批評(はる書房)1号(2004年)の創刊の辞・兵本達吉報告及びpp.123-137, p.159から。
  31. ^ 外部リンク
  32. ^ 岡本和彦「書評論文 スターリン批判の始まりと帰結に関する一考察――和田春樹著『スターリン批判 1953~56年 一人の独裁者の死が、いかに20世紀世界を揺り動かしたか』作品社、2016年」(東京成徳大学人文学部・応用心理学部『研究紀要』25号、2018年)、pp.158-159
  33. ^ 和田春樹、2016年、pp.338-39
  34. ^ 下斗米伸夫、2011年、pp.292
  35. ^ 下斗米伸夫、2011年、p.294
  36. ^ 徐大粛『金日成』(林茂訳、講談社学術文庫2162、2013年、初出1992年)、p.217 ISBN 978-4062921626
  37. ^ 和田春樹、2016年、p.338
  38. ^ 和田春樹『北朝鮮現代史』(岩波新書・新赤版1361、2012年)、p.84 ISBN 978-4004313618
  39. ^ 萩原遼『拉致と核と餓死の国 北朝鮮』(文春新書306、2003年)、p.177-78 ISBN 416660306X
  40. ^ 黄長燁『金正日への宣戦布告――黄長燁回顧録』(萩原遼訳、文春文庫[フ-17-1]、2001年、初出1999年)、p.126 ISBN 416765105X
  41. ^ 奥武則『論壇の戦後史 1945‐1970』(平凡社新書373、2007年)、p.131-32 ISBN 978-4582853735
  42. ^ 和田春樹、2016年、p.311 注1
  43. ^ 小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年)、p.206
  44. ^ 下斗米伸夫、2011年、p.292
  45. ^ 小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年)、p.207
  46. ^ 上田耕一郎「はしがき」(『戦後革命論争史』上巻、大月書店、1956年)
  47. ^ 小山弘健『戦後日本共産党史』芳賀書店、1966年、p.211
  48. ^ 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫[あ-26-1]、1995年、初出1980年)、pp.284-288 ISBN 978-4167244033
  49. ^ 柴垣和夫『昭和の歴史9 講和から高度成長へ――国際社会への復帰と安保闘争』(小学館ライブラリー、1994年、初出1983年)、p.127 ISBN 4094011099
  50. ^ 荒岱介『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書68、2008年)、p.29 ISBN 978-4344980679
  51. ^ 丸山真男「「スターリン批判」における政治の論理」(『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964年、初出1956年)、p.336
  52. ^ 家近良樹『江戸幕府崩壊――孝明天皇と「一会桑」』(講談社学術文庫2221、2014年、初出2002年)、pp.28-29 ISBN 978-4062922210
  53. ^ 蝋山政道『日本の歴史26 よみがえる日本』(中公文庫新版[S-2-26]、1974年、初出1967年)、p.262 ISBN 978-4122047488
  54. ^ 村瀬興雄(責任編集)『世界の歴史15 ファシズムと第二次大戦』(中公文庫[S-1-15]、1975年、初出1962年)、p.165-66 ISBN 4122002281 当該箇所の執筆は岩間。






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