ゲッベルス家の子どもたち ゲッベルス家の子どもたちの概要

ゲッベルス家の子どもたち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/04 01:33 UTC 版)

1942年のゲッベルス一家。
(後列)ヒルデガルト、ハラルト・クヴァント英語版、ヘルガ(前列)ヘルムート、ヘートヴィヒ、マクダ、ハイドルーン、ヨーゼフ、ホルディーネ。軍務に就いていたため同席できなかったハラルトの姿が合成されていることでも有名。

マクダ・ゲッベルスには、先の結婚でギュンター・クヴァントとの間に生まれたハラルト・クヴァント英語版という息子がいた。ハラルトはゲッベルス夫妻と養子縁組をしていたが、下のきょうだいが両親によって殺害された際、23歳だったハラルトは不在であった。ハラルトはその後1967年に死亡した。本項では、このハラルト・クヴァントについても取り上げる。

命名

全員の名前が「H」から始まることに対し、アドルフ・ヒトラーへの敬意だと考える者もいるが、この説を裏付けする証拠は存在しない。マクダが最初に結婚したギュンター・クヴァントは、最初の妻との間の子ども2人に「H」から始まる名前を付けているので、ここに由来する可能性もある。マクダの母親アウグステ・ベーレント (Auguste Behrend) もこの説を支持しており、彼女は子どもが生まれる度「H」から始まる名前を探すのが一家の無邪気な楽しみになっていたと証言している[1]

子どもたち

ハラルト (Harald)

ドイツ少国民団の制服に身を包んだ10歳のハラルト・クヴァントが、母マクダとヨーゼフ・ゲッベルスの結婚式に出席する様子。後ろにはベストマン英語版を務めたヒトラーの姿もある

マクダ・フリートレンダーは1921年1月4日に実業家のギュンター・クヴァントと最初の結婚をし、1921年11月1日にマクダにとって第1子となるハラルトを出産した[2]。しかしその後クヴァント夫妻の婚姻関係は破綻し、1929年離婚した[3]。その後マクダは1930年9月1日にナチ党へ入党したが、当初はボランティア活動を行っており、熱心に政治活動に参加していたわけではなかった。マクダはその後、地方の支局からベルリンにある党本部へ移り、ヨーゼフ・ゲッベルスの私的論文を任されることになる[4]。マクダとヨーゼフが恋愛関係になるのは、1931年2月に友人たちと行った短期のヴァイマル旅行中のことだった[3]。ふたりが結婚したのは1931年12月19日のことで、結婚式にはアドルフ・ヒトラーも出席した[5]

ハラルトは母とヨーゼフの結婚式に参加しただけでなく、養父との繋がりも示すことになった。時にはヨーゼフと共に集会に出席し、ヒトラーユーゲントの制服を着て「ヨーゼフおじさん」のそばに登壇したりした[6]。ヨーゼフは大臣に就任した後、ハラルトとゲッベルス家で同居するために、マクダを離婚条項上の義務から解放するようギュンター・クヴァントへ要求し、それをうけてハラルトは1934年までにゲッベルス家へと完全に移住した[7]

その後ハラルトは、1940年にドイツ空軍に志願入隊して降下猟兵となり、クレタ島の戦いを皮切りに各地を転戦した。1944年9月にイタリアで重傷を負ってイギリス軍の捕虜となり、最終階級は中尉であった。ハラルトは結果として、唯一第二次世界大戦を生き延びたマクダの子となった[2]。1954年に実父ギュンターが死亡するとクヴァント家の財産と事業を相続し、1950年代から60年代にかけ、彼は西ドイツ経済を引っ張る実業界の大物となる。ハラルトは1967年に自家用飛行機の事故を起こしてイタリアで死亡したが、その際には妻と5人の子どもを遺すことになった[8][9][10]

ヘルガ・ズザンネ (Helga Susanne)

ゲッベルス夫妻最初の子どもとなったヘルガは、1932年9月1日に生まれた。ヨーゼフは長女ヘルガを誇りに思っており、オフィスから帰ってくると真っ直ぐ彼女のベッドに向かい、自分の膝に彼女を乗せるほどだった。ヘルガは「お父さんっ子」であり、母マクダよりも父ヨーゼフに懐いていた。彼女は泣いたこともなく、「青い眼を輝かせながら」("her blue eyes sparkling") ナチの役人たちの言葉へ訳も分からないながらに耳を傾けるような素晴らしい赤ん坊だったと報じられている。ドイツ人の子どもが大好きだったヒトラーが、夜遅くまで話し込みながらヘルガを自分の膝に乗せることも珍しくはなかった[6]。ヒトラーの誕生日だった1936年4月20日には、彼女が妹ヒルデと共にヒトラーへ花を贈る様子が撮影されている[11]

ヘルガは殺害された時12歳であった[12]。彼女の遺体には顔を中心にが認められ、殺害に使用されたシアン化合物カプセルを口に押し込まれた際に抵抗したことが示唆されている[13]

ヒルデガルト・トラウデル (Hildegard Traudel)

1934年4月13日に生まれた次女ヒルデガルトは、「ヒルデ」"Hilde" の愛称で親しまれた。ヨーゼフは1941年の日記で、ヒルデのことを「小さなネズミ」"a little mouse" と評している[14][15]。1936年のヒトラーの誕生日には、姉ヘルガと共にヒトラーへ花を贈った様子が写真に収められた[11]。死亡時ヒルデは11歳であった[12]

ヘルムート・クリスティアン (Helmut Christian)

マクダ・ヨーゼフ夫妻と子どもたちが、1938年にオーバーザルツベルクケールシュタインハウスへヒトラーを訪ねた時の写真。左からヒルデ(次女)、ヘルムート、ヘルガ(長女)

1935年10月2日に生まれたヘルムートは、神経質で夢見がちなところがあると考えられていた[16]。父ヨーゼフは日記の中で、ヘルムートを指して「道化者」"clown" と書き残している[17]。ヨーゼフはランケ小学校 (the Lanke primary school) の教師からヘルムートの進級は疑わしいと報告を受けて落胆したが、ヘルムートはその後母や家庭教師の激烈な教育に応え、進級を果たしたという[16]。彼は歯列矯正を行っていた[14]

1945年4月26日、ヒトラーの前で父が書いた誕生日祝のスピーチを朗読したヘルムートは、姉ヘルガに父親を真似していると指摘されたが、逆に父こそ自分を真似しているのだと言い返したという[18][要ページ番号]

1945年4月30日、ヘルムートは総統地下壕で負傷者の手当に当たっていた15歳の看護師ヨハナ・ルーフ (Johanna Ruf) にちょっかいを出し、平手打ちされている。ルーフは後々になるまで、この少年がゲッベルス家の息子だと知らなかったという[19]。後にヒトラーの秘書だったトラウデル・ユンゲは、子どもたちと総統地下壕にいて、ヒトラーが自殺する際の銃声を聞いたと述べている。ヘルムートはこの音を近くにあった迫撃砲のものと勘違いし、「的に命中だ!」("That was a bullseye!") と叫んでいた。殺害の時、ヘルムートは9歳であった[12]

ホルディーネ・カトリーン (Holdine Kathrin)

三女ホルディーネは1937年2月19日に生まれた。「ホルデ」(Holde) という愛称で呼ばれていたが、これは彼女を取り上げた医師のシュテッケル (Stoeckel) が「なんと可愛らしい!」("Das ist eine Holde!") と叫んだためである[20]。マイスナーはホルデについて、子どもたちの中で「最もおとなしく」("least lively") 、他のきょうだいに「押しのけられた」("pushed aside") ところがあって多少なりとも悩みの種だったようだと述べている[21]。父ヨーゼフはこれに対し、ホルデを自身のお気に入りにし、ホルデの側もこの献身に応えた[21]。亡くなった時彼女は8歳であった[12]

ヘートヴィヒ・ヨハナ (Hedwig Johanna)

1938年5月5日に生まれたヘートヴィヒは、もっぱら「ヘッダ」(Hedda) と呼ばれていた。1944年には、大きくなったら親衛隊 (SS) の副官ギュンター・シュヴェーガーマン英語版と結婚すると息巻いていたが、これは彼が義眼であることに魅了されての出来事だった[22]。ヘッダは死んだ時6歳だったが、これは彼女が7歳になる誕生日のわずか4日前のことであった[12]

ハイドルーン・エリーザベト (Heidrun Elisabeth)

末娘ハイドルーンは1940年10月29日に生まれたが、この日は父ヨーゼフの誕生日でもあった。彼女はチェコ人女優リダ・バーロヴァとヨーゼフの情事を経て、両親が和解した後にできた子どもだったため、「和解の子」"the reconciliation child" と呼ばれたという[23]ローフス・ミシュは彼女を「小さなフラート」"little flirt" と表現し、総統地下壕では彼女と共にジョークを言い合うこともしばしばだったと述べている[24]。彼女は「ハイデ」"Heide" の愛称で親しまれたが、殺害された時4歳であった[12]

家族の歴史

空撮したシュヴァーネンヴェルダー(2019年)。ハーフェル川の中州であり、「白鳥中州」という意味を持つ

1934年、自身と家族のプライバシーを求めたヨーゼフは、ハーフェル川の島シュヴァーネンヴェルダー英語版の敷地内に壮大な屋敷を購入した。彼は合わせて、川で使うために「バルドゥル」号 (Baldur) と名付けたモーターヨットも購入した。ハラルトには1階の子ども部屋が与えられたが、ヘルガとヒルデは1つの部屋を分け合うことになった。子どもたちには庭で乗り回すように、ポニーに加えて小さな馬車まで与えられた。2年後、ヨーゼフは隣人の不動産を購入して庭を拡張し、自身の隠遁のために「砦」"citadel" を建設した[21]

その後、ヨーゼフの職権を受けたベルリン市は、彼の公邸としてランケ・アム・ボーゲンゼー英語版に2軒目の湖畔の家を建設したが、この家は家族が週末を過ごす家として充分な大きさであった。ヨーゼフはその後、ボーゲン湖の反対岸に、大きな現代風の家を追加で建てている[21]

ゲッベルス夫妻の結婚は、1938年の晩夏にチェコ人女優リダ・バーロヴァとヨーゼフの情事が発覚したことで、大きな危機を迎える。この一件に関しては、自身の高官のひとりがスキャンダルにより離婚することなど望まないとヒトラー自ら取りなし、ヨーゼフにバーロヴァと別れるよう迫っている[25]。この結果、ゲッベルス夫妻はこの年の9月までに停戦協定を結ぶに至った[26]。この時点でも夫妻は別の諍いの種を抱えていたが、再びヒトラーが取りなし、夫妻が共にいるようにと丸め込んだ[27]。ヒトラーは女優を追放すること、またマクダの作るであろう合理的条件をのんだ上で、今後も夫妻で公の場に出席するよう合意を取り付けた[28][29]。マクダの付けた条件のひとつには、ヨーゼフはシュヴァーネンヴェルダーを訪れ、マクダの許可があってはじめて子どもたちに会えるという条項があった。また、翌年もマクダが離婚を望んでいるならば、ヒトラーはこれを認め、ヨーゼフを罪人として扱い、マクダはシュヴァーネンヴェルダー、子どもたちの親権、また相当な収入を得ることができるとされていた[29]。ヨーゼフはこの合意を徹底的に遵守し、訪問の前にはいつでも許可を求め、マクダが不在の時は残念でならないと述べ、家族のお茶の席で彼女がいる時には、自分の席を優しく譲るほどだった。子どもたちは当時、誰ひとりとして両親が別居していることに気付かなかったようだと述べられている[29]


注釈

  1. ^ ドイツ南東部のバイエルン州に位置する町。近くにはオーバーザルツベルクがあり、ここにはヒトラーの山荘だったベルクホーフケールシュタインハウスがあった。
  2. ^ ケンプカの回想録では別の医師についての名前の記載はない
  3. ^ シュトゥンプフェッガーはこの日の深夜に地下壕を脱出しているが、途中でマルティン・ボルマンと共にシアン化物で自決し、長年経ってから遺体が発見された[45][46]

出典

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  5. ^ Longerich 2015, p. 167.
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  13. ^ a b c d Beevor 2002, pp. 380, 381.
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