クロアチア王国 (1102年-1526年) 歴史

クロアチア王国 (1102年-1526年)

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歴史

ヴェネツィア、ビザンツ帝国との闘争

十字軍のヴェネツィアによるザラ包囲戦(1202年)
12世紀末のクロアチア・ダルマチア王国(薄緑)

1107年、国王カールマーンダルマチアの沿岸にある旧ビザンツ都市の大部分を支配した。これらの都市は重要であったため、この地域をめぐってハンガリー人クロアチア人はしばしばヴェネツィアビザンツ帝国と争った[42]。カールマーンの死後の1116年、ヴェネツィアはダルマチア沿岸を攻撃し、クロアチアのバンクレディンの軍を破ってビオグラードスプリトトロギルシベニクザダル、さらにいくつかの島を奪った。1117年、カールマーンの後継者であるイシュトヴァーン2世は失った都市の奪還を試み、ヴェネツィア総督(ドージェ)のオルデラフォ・ファリエロ英語版をザダル近郊での戦いで破ったものの、奪還には失敗した。5年間の休戦協定が結ばれ、現状維持が確認された。1124年にイシュトヴァーン2世は再びヴェネツィア領を攻撃し、ビオグラード、スプリト、トロギル、シベネクを取り戻したが、ザダルや他の島々はヴェネツィアの支配に留まったままだった。しかし、1125年に総督ドメニコ・ミケーレ英語版はこれらの都市を再征服し、ビオグラードを壊滅させた。その後の1131年、ベーラ2世がハンガリー王位を継承し、1133年にはザダル以外の失った都市を奪還した[43][44]。1167年にはボスニアだけでなくクルカ川以南のクロアチアがビザンツ帝国に征服された。これらの地域は、1180年にビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスが死去するまでビザンツ帝国の支配下に置かれた。1180年以降バンの統治する地域は増えたものの、その領域や活動範囲はまだ完全には定まっていなかった[45]

皇帝マヌエル1世コムネノスの死後、ビザンツ帝国はもはやダルマチアで一貫して影響力を維持することができなくなった。やがてザダルはヴェネツィアに対して反乱を起こし、第4回十字軍中、イムレが十字軍への参加を誓ったにもかかわらず、総督エンリコ・ダンドロ率いるヴェネツィアと十字軍がザダル(ザラ)を略奪した1202年まで、常に戦場となった。これは十字軍による最初のカトリック都市への攻撃となった。ヴェネツィアはこれを、後にラテン帝国を建てたさらに東のコンスタンティノープル方面への船賃の補償として要求した[43]。ヴェネツィアとの敵対関係は1216年まで続いた。その当時はアンドラーシュ2世の統治時代であり、彼はヴェネツィア艦隊を利用して第5回十字軍に参加した[46]

封建制と貴族間の関係

1288年にグラゴル文字で書かれたヴィノドール法典英語版

12世紀の中世ヨーロッパで栄え、ハンガリーとクロアチアにも広がった封建制の影響の下で、クロアチアでは強力な貴族の層が形成された[47]。これらの貴族のほとんどはかつての12貴族英語版の子孫であった。クロアチアには、君主によって作られた貴族や、王室への奉仕に基づく貴族は存在しなかった[48]。これらの貴族は郡全体を支配し、また地方裁判所を主宰してその決定を執行したので、地方の住民はいかなる国の組織からも完全に切り離されていた[49]。12世紀と13世紀初期のクロアチアで最も有力だった貴族は、様々に分家してブリビルを拠点にダルマチア内陸部を支配したシュヴィッチ家英語版、スラヴォニア西部とクパ川右岸を支配したバボニッチ家英語版オミシュ英語版を拠点にツェティナ川英語版ネレトヴァ川の間を支配し、海賊行為で知られていたカチッチ家英語版、そしてクルク島、クヴァルネル、リカ北部のモドルシュ英語版郡を支配したフランコパン家英語版(当時はクルクの王子)である。これらの主要な貴族の他に、グシッチ家英語版クカル家英語版ラプチャン家英語版モゴロヴィッチ家英語版トゥゴミリッチ家英語版などの有力ではない貴族もいた[50][51]

この期間、そして第2回十字軍(1145年-1149年)の結果、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団はクロアチアにおけるかなりの資産や財産を手に入れた。ボスニアのバンボリッチによってキリスト教十字軍に有利な最初の交付が行われた。12世紀末までに、テンプル騎士団はヴラナ英語版セニ、ザグレブ近郊のノヴァヴェス英語版などを所有していた[52]

1221年、スプリトの所有権をめぐってドマルド英語版(スプリト王子かつツェティナ伯)とシュビッチ家の間で戦争が勃発した。ドマルドの家系は不明だが、おそらくスナチッチ家かカチッチ家の出身である。ドマルドはシベニクとクリス要塞も領有し、1209年にはヴェネチアからザダルを一時的に奪った。1221年、スプリト市民はドマルドを追放し、クニン近郊のズヴォニグラード出身のヴィシャン・シュビッチを王子に選出した。シュビッチ家は勝利を収めたが、そのメンバーであるグレゴリウス3世ハンガリー語版とヴィシャンの間で再び戦争が始まった。グレゴリウスは勝利してヴィシャンを処刑し、また彼の土地を手に入れ、シュビッチ家の中での覇権を確保した。しかしドマルドはまだクリスを所有しており、スプリト奪還の野望を抱いていた。 戦争の過程でドマルドはクリスを失い、カチッチ家と同盟を結んだ。1229年、ドマルドはスプリトでグレゴリウスの代理をなんとか打ち破り、スプリト王子に再選された。しかし、1231年までにグレゴリウスはスプリト王子の地位に戻った。グレゴリウスの死後の1235年、ドマルドは新しい状況を利用して再びスプリトを奪還したが、2年後にグレゴリウスの息子マルコ1世に奪われた。ドマルドとの戦争は、ステプコ・シュビッチがクリスで彼を破り、捕えたことでようやく終結した[51]

国王アンドラーシュ2世に反抗したハンガリー貴族と異なり、クロアチアとスラヴォニアは13世紀を通じて地方貴族の下で分権化が進んだ。1222年、国王はハンガリー貴族の特権を規定し、免税や不服従の権利を認めた金印勅書の発行を強いられた。クロアチア貴族は、アンドラーシュ2世が認めた特権を最大限に享受した[51]

モンゴルの侵攻

ベーラ4世の統治時代、モンゴル民族タタール)がキエフ南ロシアを征服し、1241年にはハンガリーにも侵攻した。1241年4月11日にシャイオ川で行われたモヒの戦いで、モンゴルはハンガリー軍を一掃した[53]。ベーラ4世の弟であるカールマーンは厳しい負傷を負い、南方のクロアチアに連れてかれたが、傷が原因となってそこで死亡した。バトゥは、クロアチアに逃げたベーラ4世を追うために、10,000人から20,000人の軍隊を備えたいとこのカダアン・オグルを派遣した[54]

1242年、モンゴル人はドラーヴァ川を渡り、スラヴォニアのポジェガ郡英語版クリジェヴツィ郡英語版の略奪を始めた。彼らはチャズマザグレブの町を略奪し、ザグレブ大聖堂は焼失した[55]。貴族は、ベーラ4世とともに南方のクリス要塞英語版、スプリト、トロギル、その周辺の島々に移動した[56]。スプリト近郊にいたモンゴルは、ベーラ4世が隠れていると考え、クリス英語版への攻撃を開始した。しかし実際にはベーラ4世はトロギルにいた上、モンゴルは要塞の包囲に失敗した[55]

すぐにカラコルムオゴデイが死んだという知らせが届き、モンゴル人は新しいハンの選挙に参加するために引き返した。ある集団はゼタセルビアブルガリアを通過して東に戻り、いずれも略奪をされた。また別の集団はドゥブロヴニク周辺を略奪し、コトルの町を焼き払った[53][56]

クロアチアではモンゴルが去った後、土地が荒廃し、深刻な飢饉が起こった。モンゴルの侵略によって、要塞化された都市でなければ防衛できないことが明らかになった。モンゴルはまだ東ヨーロッパの大部分を押さえていたため、新しい要塞の建設や既存の要塞の補強・修理など、防衛システムの構築を開始した[56]。ガリッチ、リポヴァツ、オキッチ、カルニクなどの他にも、ザグレブ上空のメドヴェドニツァ山には要塞都市メドヴェドグラード英語版が建設された[56]。1242年11月16日、国王はグラデツ英語版(現在のザグレブの一部)の市民に対して金印勅書を発行し、自由都市であることが宣言された。貴族は自分の土地に城を建て、軍隊の規模を大きくすることが許された。これにより、貴族の独立性はさらに高まった[41]

13世紀の内戦

パヴァオ1世シュビッチ・ブリビルスキ英語版の紋章。"Paulus de Breberio banus Croatorum D[omi]n[u]s et Bosnae"(クロアチアのバンかつボスニア領主であるブリビールのパヴァオ)と記されている。

モンゴルの侵攻によって一時的に貴族間の内戦が中断したが、1240年代初頭にモンゴルが去った後、すぐにクロアチアでは内戦が再開した。戦争の原因はオストログ村の領有であった。この村はスプリトとトロギルがともに領有権を主張し、1242年にはベーラ4世がトロギルに特許を与えた。トロギルは国王とシュビッチ家、その指導者であるステプコ・シュビッチの支援を受けた。一方でスプリトはカチッチ家英語版Hum英語版のアンドリュー、ボスニアのバンマテイ・ニノスラフ英語版と同盟を結んだ。1244年、スプリトはニノスラフを王子に選出し、同年、ニノスラフはトロギルへの攻撃を開始したが、都市を奪うことはできなかった。ニノスラフがボスニアに戻った後、スラヴォニアのバンデニス・テュリエ英語版、ステプコ・シュビッチ、ダニエル・シュビッチが指揮する大軍がスプリトに派遣され、スプリトは直ちに降伏した。講和条約が1244年7月19日に調印された。ベーラ4世率いる第2軍はボスニアに侵入し、1244年7月20日にマテイ・ニノスラフに和平条約を結ばせた。ダルマチアの沿岸都市間の争いを防ぐため、ベーラ4世はそれまで都市が独自に行っていた知事の選挙をクロアチアのバンに移した。しかし、それまで沿岸部のほとんどの都市を統治していたシュビッチ家はこの決定に不満を抱いていた[57][58]

後代の王は、町に一定の特権を与えて自由都市とし、地方貴族の権威から切り離すことで国王の影響力を回復しようとした。ヴァラジュディンは1220年に、ヴコヴァルは1231年に、ヴィロヴィティツァは1234年に国王アンドラーシュ2世から自由都市の地位を与えられた。また、 ペトリニャは1240年に、グラデツ英語版ザグレブ大司教英語版の住むカプトル英語版を除く)は1242年に、サモボルは1242年に、クリジェーブツィ英語版は1252年に、ヤストレバルスコ英語版は1257年に同じ地位を獲得した。自由都市は自ら議会を選出し、統治権や裁判所を持ち、また自ら税金を徴収し、経済や貿易を管理した[57]

しかし、地方貴族は引き続き力をつけていった。王権の弱体化によりシュビッチ家は1270年代にトロギル、スプリト、シベニクを奪還し、沿岸都市でかつての地位を回復した。1274年、パヴァオ1世(クロアチア語: Pavao I Šubić Bribirskiはシュビッチ家の当主となり、すぐにクロアチアとダルマチアのバンとなった。一方彼の兄弟はスプリトのムラデン1世英語版とトロギルとシベニクのジュラジュ1世英語版というように、ダルマチアの有力都市の王子であった。1280年、ヴェネツィアはカチッチ家の沿岸部の領地を攻撃し、オミシュを占領した。パヴァオはカチッチ家の衰退を利用し、ネレトヴァ川とツェティナ川の間の本土の領地を奪った[49]

王朝の闘争とシュビッチ家

ザダルのChest of Saint Simeonに描かれたパヴァオ1世

1290年、ラースロー4世が息子を残さずに死亡し、アールパード朝のアンドラーシュ3世ハンガリー・アンジュー家カルロ・マルテッロとの間で継承戦争が勃発した。クロアチアのバンパヴァオとクロアチア貴族のほとんどはカルロ・マルテッロを支持し、ハンガリー貴族のほとんどはアンドラーシュ3世を支持した。バボニッチ家は当初カルロ・マルテッロ側についていたが、やがてアンドラーシュ3世側についた。クロアチア人の支持を維持するため、カルロ・マルテッロの父であるカルロ1世は、息子の名でグヴォズド山からネレトヴァ川までの全領土をパヴァオに世襲として与えた。こうしてバンの地位はシュビッチ家に世襲された一方で、地元のクロアチア貴族はパヴァオとその子孫の家臣となった。これに対し、アンドラーシュ3世もパヴァオをクロアチアのバンとする勅令を出した。こうした支持の獲得競争と、内戦中に中央権力が不在となった結果、シュビッチ家はクロアチアで最も強力な一族となった[59][60]

ザグレブでは、司教の町カプトル英語版がカルロ・マルテッロを、グラデツ英語版がアンドラーシュ3世を支持し、この地域で激しい戦闘が繰り広げられた。1295年にカルロ・マルテッロが亡くなると、王位継承権は息子のカーロイ1世に移った。クロアチアとハンガリーの貴族はやがてアンドラーシュ3世を国王として受け入れたが、1299年、アンドラーシュに息子がいなかったために叔父のアルベルティーノ・モロジーニを後継者に指名すると、新たな反乱が始まった。パヴァオは弟のジョージ1世をローマに送り、彼らの要求をローマ教皇に認めさせ、カーロイ1世を1300年8月にクロアチアに連れてきた。その翌年の1301年1月にはアンドラーシュ3世が死亡し、アールパード朝は滅亡した。バンパヴァオはカーロイ1世と共にザグレブに行き、そこで王として承認された。また、1301年3月、彼はエステルゴムで大主教からハンガリー王とクロアチア王の仮の王冠を授けられた[59][60]。そのため、慣習で求められていたセーケシュフェヘールヴァールでの聖イシュトヴァーンの王冠を使った戴冠は行われなかった。

パヴァオが継承危機中に獲得した特権が認められ、彼の家族はバンの世襲権を得た。クロアチア貴族はカーロイ1世を承認したが、一部のハンガリー貴族がこれを拒否し、ボヘミア王ヴァーツラフ2世の息子ヴァーツラフを選び、1301年にセーケシュフェヘールヴァールでハンガリー王として戴冠した。ハンガリーでは内戦が続いたが、パヴァオの確固たる権威のもとにあったクロアチアには影響がなかった[59]。1299年にパヴァオはボスニアの支配権を獲得し、その時から「クロアチアのバン・ボスニアの領主(ラテン語: Banus Croatorum Dominus et Bosnae)」という称号が与えられた。彼は弟のムラデン1世にボスニアのバンの称号を与えた。当時、パウロの権力はグヴォズドからネレトヴァまで、アドリア海沿岸からボスナ川まで及び、ザダルだけがその領域外に残ってヴェネツィアの支配下に置かれていた[61]。しかし、1304年にムラデン1世はボスニアで殺害された。パヴァオは自身の権威の再確認のためにボスニアに対する戦闘を行い、1305年から自らを「ボスニア全土の領主(ラテン語: totius Bosniae dominus)」と称し、ボスニアのより多くの土地を支配下に置いた。彼は2番目の息子のムラデン2世英語版をボスニアのバンに任命し、1305年に彼の3番目の息子のパヴァオ2世英語版がスプリト王子になった[62]

パヴァオ1世は自ら硬貨を発行し、事実上独立した支配者であった。また、彼は1311年にザダルでヴェネツィアに対して反乱を起こし、成功した。1312年5月1日にパヴァオ1世が亡くなり、息子のムラデン2世が後継者となった後もヴェネツィアとの戦争は続いた。パヴァオ1世の死後、ブリビル王子は徐々に衰退し始めた。最終的にヴェネツィアは1313年にザダルの支配を回復した[61]。1322年にはクロアチアで別の内戦が始まった。内戦は、ムラデン2世とその同盟軍が彼の兄パヴァオ2世を含むクロアチア貴族とスラヴォニアのバンヨハン・バボニッチ指揮下の沿岸都市の連合に敗れたブリスカの戦い英語版で最高潮に達した。国王によってクニンで開催された会議では、ジョン・バボニッチがクロアチアとダルマチアのバンに指名され、シュビッチ家の世襲統治は終了した。彼らの所有地は縮小され、ムラデン兄弟で分割された。パヴァオ2世はブリビルとオストロヴィツァを、ジョージ2世はクリス、スクラディン英語版、オミシュを領有した[63]

1312年、ヴェネツィアによるザダル占領直後のパヴァオ1世の領域(クロアチア・ボスニア・Hum)

シュビッチ家の衰退後、イワン・ネリピッチクロアチア語版がクロアチアの支配者となった。彼は王都クニンを占領し、これによりヨハネ・バボニッチはバンの地位を追われ、ニコラス・フェルスーレンドヴァイ、後にミクシュ・アコスが後継に任命されたが、彼の軍は1326年にイワン・ネリピッチに敗れた。こうして、リカとクルバヴァからツェティナ川に至るクロアチア全土が、事実上国王の権威の外に置かれることになった。ネリピッチはシュビッチ家と緊張関係にあり、頻繁に対立していた。これらの争いの中でヴェネツィアは1327年にスプリトを、1329年にニンを支配下に置き、ズルマニャ川からツェティナ河口に至る沿岸の大部分を手に入れた。同時に、ボスニアのバンスティエパン2世英語版イモツキ、Duvno、Livno i Glamočだけでなくツェティナとネレトヴァの間の領土を併合した。クロアチアの残りの地域は、イワン・ネリピッチが1344年に亡くなるまで、クニンから独立して統治していた[63][64]。その後、ラヨシュ1世はクロアチアの王権を回復し、1345年末までにクロアチアを平定した。ニコラス・ハホト英語版は、数十年ぶりに任命された王室の役人で、スラヴォニア、クロアチア、ダルマチアのバンを名乗り、二つの地位を統合してクロアチア領にも影響力を広げ、王室の権威を代表する存在となった[65]

ダルマチアの領土変動

1345年、ザダルは再びヴェネツィアに対して反乱を起こしたが、長い包囲の後、1346年にヴェネツィアはこの都市を再び獲得した。この反乱への報復として、ヴェネツィアはザダルの防潮堤を破壊し、市民から武器を没収し、またヴェネツィア人を町の総督として送り込んだ。国王ラヨシュ1世は1348年にヴェネツィアと8年間の平和条約を結んだ。平和条約終結後の1356年、ラヨシュ1世は事前の宣戦布告なしにヴェネツィアの領土に侵攻した。この時クロアチア軍はルドブレグのバンJohn Csúzが率いていた。スプリト、トロギル、シベニクではすぐにヴェネツィアの総督を追い出したが、ザダルは短い包囲の後に陥落した。ラヨシュ1世が同時期に北イタリアでの戦いで成功を収めたため、ヴェネツィアは1358年2月18日にザダル条約英語版への調印を強いられた[66]

14世紀半ばのクロアチア

この条約により、ラヨシュ1世は独立して行動していたドゥブロヴニク(ラグーザ)を含む、ツレス島からアルバニアのドゥラスに渡るダルマチア全域を支配下においた。ヴェネツィアのドージェ総督)は、「クロアチア・ダルマチア公」という称号を放棄しなければならなかった[66]。この後、クロアチア全土は一つの行政、そしてクロアチアとダルマチアのバンの権限の下に統合された。結果として、クロアチアの経済は特に東アドリア海岸の都市において14世紀後半に繁栄した。新しい王立都市が交易路上に設立され、より裕福な商人が町を支配するようになり、町の新たな様子が沿岸と大陸のクロアチアの間の文化的統合の始まりを示した[67]

反宮廷運動

1382年にラヨシュ1世が死んだ後、彼の妻エリザベタ・コトロマニッチは11歳のマーリアの摂政を務めた。エリザベタの即位は、ナポリ王カルロ3世を正統な王位継承者と考える一部の貴族たちによって否定された。クロアチアでは、ヴラナの司祭であったイヴァニシュ・パリジュナ英語版がエリザベタに最初に反対した。彼は、主にエリザベタの夫が行った中央集権政策に反対していた。彼は1371年にボスニア国王として戴冠したスティエパン・トヴルトコ1世英語版を伴っていた。イヴァニシュ・パリジュナは結局エリザベタの軍隊に敗れ、ボスニアに逃亡せざるを得なくなった。短い平和な時代が続いた後、1385年にマクソーのバンであるジョン・ホルヴァートとその弟でザグレブ首長であるポール・ホルヴァートが率いるマーリア女王とエリザベタ女王に対する新しい運動が生まれた[68]

15世紀初期のHrvoje Vukčićの領域

この二人の兄弟に、1385年にカルロ3世によってクロアチア・ダルマチア・スラヴォニアのバンとなったイヴァニシュ・パリジュナが加わった。彼らは、1385年末にマーリア女王を退位させることでカルロ3世を支援したが、エリザベタは直後の1386年2月に彼を殺害させた。ホルヴァート兄弟は、殺されたカルロ3世(カーロイ2世)の息子ラディズラーオに代わって、堂々と反乱を起こした。1386年7月25日、彼らはマーリア女王、エリザベタ女王とその従者をゴルジャニ英語版で襲い、女王たちを捕らえた。マリアとその母はザグレブ司教のゴムネク城に投獄され、監禁された[69]。エリザベタとマーリアはすぐにノヴィグラード城に送られ、イヴァニシュ・パリジュナが新しい監守となった。エリザベタは裁判にかけられ、カーロイ殺害を扇動した罪で有罪になった。1387年1月、マーリア女王の夫であるルクセンブルク家ジグモンドが、女王たちを救出するためにノヴィグラードに向かって進軍した。ジグムンドの接近の知らせがノヴィグラードに届くと、エリザベタはマーリアの面前で牢獄で絞殺された。そして1387年3月31日、セーケシュフェヘールヴァールでジグモンドが国王に即位した[69]

ジグモンドの同盟者Ivan Ⅴは、ヴェネツィア艦隊の支援を得てノヴィグラード城を包囲した。1387年6月4日に彼らは城を占領し、幽閉されていたマーリアを解放した。彼女は死ぬまでジグムンドの共同統治者であり続けたが、その影響力は小さかった。一方、ホルヴァート兄弟の同盟者であるボスニア国王トヴルトコ1世英語版は、彼らをウソラ英語版の総督に任命した。ホルヴァート兄弟は、ボスニア大公英語版フルヴォイエ・ヴクチッチ・フルヴァティニッチ英語版にも支援されていた。トヴルトコ1世とその同盟軍は1387年から1390年にかけてクロアチアとダルマチアの大部分を獲得し、ジグムンドがこれらを取り戻そうと努めたが失敗に終わった。1390年、トヴルトコ1世は「クロアチア・ダルマチア王」を名乗り始め、フルヴォイエにダルマチアの領地を与えた。トヴルトコ1世は1391年3月に死亡し、その数週間後にはイヴァニシュ・パリジュナが死亡した。国王トヴルトコ1世の死後、フルヴォイエはボスニアで最強の貴族となった。同年、ラディズラーオは彼をダルマチア地方の副官に任命し[70]、ブラチ島、フヴァル島、コルチュラ島の領有を認め、スプリト公、後にスプリト・ヘルツォークの称号を与えた[71][70][72][73]

Ladislaus Viceroy in Croatia and Herzog of Split, Hrvoje Vukčić Hrvatinić, Grand Duke of Bosnia as depicted in Hrvoje's Missal (1404)
オスマン帝国の拡大とクロアチア(1500年)

1393年にトヴルトコ1世の後継者であるスティエパン・ダビシャ英語版がジグムンドと和平を結ぶと、状況は一変した。彼はトヴルトコが最近獲得した領土を返還したが、1385年に征服したボスニア西部の領土を保持することを許された。また、フルヴォイエ・ヴクチッチも1393年に服従した。1394年7月、ジグムンドはボスニアのドボルを占領してジョン・ホルヴァートを捕らえ、ホルヴァートの反乱を終結させた。マーリア女王の命令で、母の死の復讐として、パリジュナはペーチで拷問を受けて死んだ[37]

スティエパン・ダビシャの死後、その未亡人イェレナ・グルバ英語版が女王に選ばれた。フルヴォイエ・ヴクチッチは再び積極的にジグムンドに反対し、ナポリのラディズラーオへの支持を表明した。反抗的な貴族たちと和解するために、ジグムンドは1397年2月27日にクロアチアのクリジェフチで会議を招集し、そこにラディズラーオからクロアチア副官に任命されていたスティエパン2世ラックフィを安全策で招いた。この集会で、ラックフィと甥のアンドリュー、それを支持する貴族が殺害され、ラディズラーオの名前で新たな蜂起が起こった。この蜂起を主導したのはフルヴォイエ・ヴクチッチで、彼は非常に積極的な役割を果たし、自らの権威を拡大することができた。クリジェフチの議会は、後に「血まみれのクリジェフチのサボル英語版」と呼ばれるようになった[74]

1398年、ジグムンドはボスニア王国との戦闘に失敗し、その後ボスニアの新国王スティエパン・オストヤ英語版とフルヴォイエが攻勢に転じた。ザダルは1401年にフルヴォイエに服従し、ツェティナ県の大部分を支配していたイヴァニシュ・ネリプチッチ英語版の援助により、フルヴォイエは1403年にスプリトを支配下に置いた。この間、ジグムンドはフランコパン家の支持を失ったが、クルチャコヴィッチ家英語版(グシッチ家の分流)、ベリスラヴィッチ家、ズリンスキー家英語版の忠誠を維持した。しかし、ラディズラーオが消極的でブダへの進出を躊躇したため、ジグムンドは彼に敵対していたすべての人々に恩赦を与えることにした。フランコパン家を含む多くのハンガリーやクロアチアの貴族はこれを受け入れ、ジグムンド側についた[75]

フルヴォイエ・ヴクチッチとの対立により、ボスニア貴族は1404年にステファン・オストヤを追放し、フルヴォイエの傀儡としてトゥヴルトコ2世英語版を王位に就かせた。オストヤはハンガリーに逃げ、ジグムンドに味方した。フルヴォイエは、1408年にボスニア貴族がドボルの戦いで大敗するまで、何度かのジグムンドの軍事介入に耐えられた。1409年1月、フルヴォイエがジグムンドに降伏し、オストヤがボスニア王位に復帰したことが発表された。これによって、ジギスムントはハンガリー、ボスニア、クロアチアでの騒乱に終止符を打った[76]。やがて1409年、ラディズラーオはダルマチアにおける権利を10万ドゥカーツでヴェネツィアに売却し、フィレンツェ共和国との戦争で味方を得ようとした[77]

オスマン帝国との戦争

Petar Berislavićの記念碑(トロギル
クルバヴァの戦い英語版(1493年)

1453年にビザンツ帝国を征服した後、オスマン帝国は急速に西方へ拡大し、クロアチア王国を脅かした[78]。1463年のボスニア王国の陥落に続き、国王マーチャーシュ1世ヤイツェスレブレニク英語版を設立することで防衛を強化した。オスマン帝国は防衛線を破るのに苦戦したが、クロアチアや南ハンガリーへの略奪を定期的に行った。1463年の略奪の最中、クロアチアのバンPavao Špirančićはセニで捕らえられた[79]。オスマン帝国は急速に南方へ拡大し、1482年にはヘルツェゴビナの大部分とネレトヴァ渓谷のクロアチアの拠点を征服した[80]

クロアチアのオスマン帝国に対する最初の主な勝利は、1478年、Glina近郊でCount Petar Zrinskiによって達成された。1483年、クロアチアのバンMatthias Geréb英語版とフランコパン家が率いた軍隊は、現在のノヴィ・グラード近くで行われたウナの戦い英語版で、約7000人のオスマン帝国騎兵(アキンジ)の部隊を破った。同年平和条約が結ばれ、クロアチアはオスマン帝国による大規模な略奪を免れた。国境での戦闘は続いたが、それほど激しいものではなかった[81]

1490年、マーチャーシュ1世の死とともに休戦が終了した。1491年にオスマン帝国の軽騎兵1万人がウナ川を渡り、カルニオラに進出しが、その帰り道にヴルパイルの戦い英語版で敗れた。2年後、クロアチアの新たなバンエメリク・デレンチン英語版とフランコパン家の間で戦争が始まった。当初はフランコパン家の方が優勢でセニを包囲し始めたが、バン・デレンチン率いる軍隊が派遣され、包囲は解除された。しかし、カルニオラ襲撃からクロアチアを通って戻ってきたハディム・ヤクプ・パシャ(ボスニア県英語版のベイ)率いるオスマン帝国軍の来襲により、講和を強いられた。クロアチア貴族は約1万人の兵士を集め、野戦でオスマン帝国軍を迎えると決めたが、待ち伏せの方が良いと主張する者もいた。1493年9月9日、クロアチア軍はリカ地方のウドビナ英語版付近でオスマン帝国軍を迎え撃ち、クルバヴァの戦い英語版で大敗を喫した[78]。クロアチアを破ったことは大きかったものの、オスマン帝国はその結果として領土を獲得することはなかった[82]。戦災地から来たクロアチア人は徐々に安全な地域に移動し始め、一部の難民はクロアチア国外に逃れてブルゲンラント、南ハンガリー、イタリア沿岸部などに移動した[83]

1513年8月16日、1513年8月16日、バンペタル・ベリスラヴィッチ英語版は、ウナ川でのドゥビツァの戦い英語版で7000人のオスマン帝国軍を破った[84]。1514年2月、オスマン帝国は10,000人の兵士でクニンを包囲して町周辺を燃やしたが、攻略には失敗し、500人の軍隊を失った[85]。1519年、オスマン帝国との戦争でクロアチア人兵士が大きく貢献したことにちなみ、ローマ教皇レオ10世はクロアチアを「キリスト教世界の防壁antemurale christianitatis)」と呼んだ[86]。ペタル・ベリスラヴィッチは、1520年5月20日のプジェシェヴィツァの戦いで待ち伏せにあい戦死するまで、7年間オスマン帝国と絶え間ない戦闘を続けた[87]。1513年と1514年の二度の失敗の後、ガジ・フスレフ・ベグ英語版率いるオスマン帝国軍はクニンを最終的に包囲し、1522年5月29日に攻略した。オスマン帝国は何度もクリスを包囲したが、セニの隊長でありクリスの王子でもあったペタル・クルジッチ英語版が、約25年間クリス要塞を守り続けた[88]

1526年4月23日、スルタンスレイマン1世は8万の正規軍と大勢の非正規補助軍を率いてイスタンブールを出発し、ハンガリーへの侵攻を開始した。スレイマンは7月2日にサヴァ川に到達し、2週間の包囲の後、7月27日にペトロヴァラディンを、8月8日にイロクを占領した。8月23日までに彼の軍隊は抵抗を受けることなくオシイェクでドラーヴァ川を渡った。同日、ラヨシュ2世は約25,000人の軍勢でモハーチに到着した。クリストファー・フランコパン伯爵の5千人の軍隊は、戦場への到着が間に合わなかった。8月29日、ハンガリー軍はモハーチ南方の平原でオスマン帝国を迎え撃ったが、2時間足らずで敗退した。1526年のモハーチの戦いは、ラヨシュ2世の死によってヤギェウォ朝の支配が終わったという点で重要な出来事であった。この敗北はキリスト教の軍隊にオスマン帝国を阻止する力がなかったことを示すものであり、オスマン帝国は何世紀にもわたって大きな脅威であり続けた[89]


注釈

  1. ^ 後にダルマチアで使用された。

出典

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