カールマーン_(ガーリチ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > カールマーン_(ガーリチ公)の意味・解説 

カールマーン (ガーリチ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 02:57 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search
カールマーン
Kálmán
カールマーン像(ゲデレー
称号 ガーリチ公
スラヴォニア公、クロアチア公(1226年 - 1241年)
出生 1208年
死去 1241年
ザグレブ
父親 ハンガリーアンドラーシュ2世
母親 ゲルトルート・フォン・アンデクス
テンプレートを表示

カールマーンハンガリー語: Kálmán1208年頃 - 1241年)はアールパード朝ハンガリー王国の国王アンドラーシュ2世の子である。ルーシのガーリチ公国クニャージガーリチ公の座に1213年から1221年にかけて就いていた(ハンガリーの資料では「王」と記される)。また、1226年から1241年にかけてはスラヴォニア公ならびにクロアチア公であった。1241年にモンゴル帝国の東欧侵攻における一戦闘に参加し、死亡した。

生涯

1211年、ハンガリー王アンドラーシュ2世はクラクフ公レシェク1世と結び、ガーリチ公の座にダニールを据えた。しかしこの処置の後、ウラジスラフ(ru)を長とするガーリチの貴族層(ボヤーレ)は、ダニールをその兄弟らと共にガーリチから追放した。これに対し、1214年、アンドラーシュ2世はレシェク1世と共にガーリチを占領した。カールマーンはこの時にガーリチ公に据えられた。また、カールマーンとレシェク1世の娘サロメアとの間に婚儀が結ばれ、ガーリチ公国の西部はレシェク1世の所領となった。1215年、アンドラーシュ2世はローマ教皇インノケンティウス3世に、カールマーンのガーリチ王位の承認を要求した。

その後まもなく、ハンガリーはプシェムィシルとルバチュフ(en)をポーランドから没収した。その理由はレシェク1世がノヴゴロド公ムスチスラフに加担したためと考えられている。1215年の春より、ムスチスラフはカールマーンの治めるガーリチ公国を脅かし始めていた。このことはアンドラーシュ2世からインノケンティウス3世へ宛てた書簡にも記されている。1221年、ムスチスラフによってガーリチは陥落し、捕虜となったカールマーンはトルチェスクへ送られた。カールマーンを解放するために、アンドラーシュ2世は、ムスチスラフの娘マリヤと、自身の息子(カールマーンの弟)アンドラーシュとの婚儀を結び、和平条約を締結した。ハンガリーへ帰国したカールマーンはスラヴォニア、クロアチアの公となった。

ハンガリーにおいては、カールマーンは1241年のモヒの戦いに兄と共に参加したが負傷し、その傷が元で1241年の5月もしくは6月にザグレブで没した。

参考文献

先代:
ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ
ガーリチ公
1213年 - 1221年
次代:
ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カールマーン_(ガーリチ公)」の関連用語

カールマーン_(ガーリチ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カールマーン_(ガーリチ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカールマーン (ガーリチ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS