ウィリアム・シャーマン 前半生

ウィリアム・シャーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 01:57 UTC 版)

前半生

1820年2月8日オハイオ州ランカスターで生まれる。9歳の時に判事であった父親が死亡。近所に住む家族の友人でもあった当時のオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員、後に内務長官に就任したトマス・ユーイングの家に引き取られる。この際にウィリアムの名前を与えられた。

16歳の時にウエストポイントに入学、1840年に6位の成績で卒業。砲兵少尉として、フロリダでの実戦を経験する。米墨戦争では、カリフォルニアで後方支援などの事務を行い大尉に昇格する。

1850年にユーイングの娘と結婚、1853年に一度軍を退役。サンフランシスコに移住し、銀行を経営する。サンフランシスコでは複数の事故に遭い、また銀行経営の失敗からストレス性の病気になった。

1856年カリフォルニア州政府の軍の少将に就任。1857年に銀行が倒産して、カンザス州に移住する。

カンザス州では、法律家として再起を計るが失敗。1859年ルイジアナ州に移り、後にルイジアナ州立大学となる新たに設立された州立軍学校で学長となり教鞭を取る。このため、シャーマン将軍はルイジアナ州立大学の初代学長とされる。

1861年に南部が独立を宣言すると、シャーマンはルイジアナ州のバトンルージュにある連邦軍施設の接収を知事に命じられるが、拒否して学長の地位を退任する。この際に南部の敗戦を的確に予測していたとされる。退任後数ヶ月のみ、鉄道会社の経営に携わるが、すぐワシントンD.C.に呼び戻された。

南北戦争での軍務

ウエストポイント時代の友人の多くが南部の将軍に就任したが、シャーマンは北軍の第13歩兵連隊の指揮官大佐に1861年5月14日に就任。同年7月21日第一次ブルランの戦いでは、北部軍総崩れの中、軽傷を負いながらも善戦。リンカーン大統領は、シャーマンを准将に昇格させ、ケンタッキーカンバーランド戦線(ケンタッキーからテネシーにかけてのカンバーランド川沿い)の司令官とする。

ケンタッキーでのシャーマンは、過労とストレスで一時期精神に異常を来たし、オハイオ州の実家での静養を余儀なくされるが、1862年4月6日から7日にかけてのシャイローの戦いではグラント配下の師団司令官として善戦。負傷しつつも師団を指揮し、北部軍の敗走の被害を抑えた。この功績で同年5月1日には少将に昇格する。

1863年頃までに、グラントとの間に深い信頼関係を築く。ストレスに弱く、精神的に不安定であったとされるシャーマンと、アルコール依存症であったグラントは、精神的に低調であった際に互いにサポートしあったとされる。1863年7月のビックスバーグの攻略、同年12月の第三次チャタヌーガの戦いの功績は二人で分け合っている。

1864年にリンカーンがグラントをワシントンに呼び戻しアパラチア以東の総司令官および北部軍の総司令官に任命すると、シャーマンは西の総司令官に昇格する。

同年ジョージア州アトランタを攻略(この戦いは小説『風と共に去りぬ』の背景となっている)。占領後、アトランタを焼き払い、11月に「海への進軍」と呼ばれるジョージア州サバナへの進撃作戦を開始する。この作戦はジョージア州の最も肥沃な地帯を焦土と化し、また鉄道や通信などのインフラ設備はことごとく破壊された。24日後の12月21日にはサバナも陥落、綿花の輸出を行う主要な港を落とされたジョージア州は完全に北部軍の手中に落ちた。

1865年にはサバナよりバージニアを目指して北上作戦を開始。途中サウスカロライナ州を徹底的に破壊。サウスカロライナ州の州都のコロンビアは焼き払われた。同年4月にはノースカロライナ州に進撃、ロバート・E・リーの率いるバージニア軍をグラントの東方面軍と戦略的に挟撃出来る位置まで進撃すると、進退の窮まったリーはグラントに降伏、ノースカロライナ州でジョセフ・ジョンストンも降伏し、ここに南北戦争は終結した。

南北戦争後、1866年に中将[1]、陸軍副司令官、そして、大統領となったグラントの後任として1869年に大将、アメリカ合衆国の陸軍総司令官に昇格、1883年に引退するまで14年間、その任を勤めた。

人物・逸話

  • 残虐なイメージが付きまとうが、実は嫌戦家であり、南北戦争以前から戦争の虚しさ、悲惨さを強調した手紙、文、スピーチなどを多く残したことでも知られる。後年のスピーチで発した「War is Hell」(「戦争は地獄」)という文句[2][3] は特に有名。
  • 第二次世界大戦時にアメリカ陸軍が開発したM4中戦車は英国軍からシャーマンと呼ばれ、以来この通称が定着している。

  1. ^ この年に3つ星の将官として新設、大将は4つ星となる。
  2. ^ Fred R. Shapiro and Joseph Epstein, eds., The Yale Book of Quotations (New Haven: Yale University Press, 2006), p. 708.
  3. ^ From transcript published in the Ohio State Journal, August 12, 1880, reproduced in Lloyd Lewis, Sherman: Fighting Prophet (Harcourt, Brace & Co., 1932. Reprinted in 1993 by the University of Nebraska Press, ISBN 0-8032-7945-0), p. 637.


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