イエナ・アウエルシュタットの戦い イエナ・アウエルシュタットの戦いの概要

イエナ・アウエルシュタットの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/15 22:10 UTC 版)

イエナ・アウエルシュタットの戦い

イエナの戦いで親衛隊を閲兵するナポレオン
オラース・ヴェルネ
戦争ナポレオン戦争第四次対仏大同盟
年月日1806年10月14日
場所ドイツテューリンゲンイエナおよびアウエルシュタット
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
フランス帝国 プロイセン王国
指導者・指揮官
ナポレオン・ボナパルト
ルイ=ニコラ・ダヴー
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
カール・ヴィルヘルム・フェルディナント 
戦力
(イエナ)
兵力 90,000
砲 173
(アウエルシュタット)
兵力 27,000
砲 45
(イエナ)
兵力 51,000
砲 120
(アウエルシュタット)
兵力 63,000
砲 230
損害
(イエナ)
死傷 5,000
(アウエルシュタット)
死傷 7,000
(イエナ)
死傷 10,000
捕虜 15,000
砲 112
(アウエルシュタット)
死傷 10,000
捕虜 3,000
砲 115

この戦いの結果、プロイセン軍は甚大な損害を被り、その後の追撃戦で完全に壊滅、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。特にアウエルシュタットにおいては、ルイ=ニコラ・ダヴーが2倍のプロイセン軍を破っている。

背景

1805年、ナポレオンはアウステルリッツの戦いで勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させた。神聖ローマ帝国は解体され、フランスの影響下に置かれたライン同盟が結成、これによってフランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなった。ナポレオンはライン同盟諸邦に約20万のフランス軍を駐屯させたが、これは領域を接するプロイセンに危機感を抱かせ、プロイセン国内に反ナポレオンの愛国者たちを生み出すこととなった。

当初、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はフランスとの開戦に必ずしも賛成ではなかった。これは国王の消極的で優柔不断な性格もあるが、プロイセンとフランスの国力差を考慮した情勢判断の結果でもある。しかし、王妃ルイーゼ、プロイセン王子ルイ・フェルディナントといった反ナポレオンの急先鋒はさかんに王を焚き付け、ついに開戦の決意を固めさせた。

1806年7月、プロイセンはイギリスロシアザクセンスウェーデンとともに第四次対仏大同盟を結成、フランスに対抗する姿勢をあらわにした。8月末、プロイセンはフランスにライン諸邦に駐屯する軍の撤収を要請した。これは事実上の宣戦布告であった。

プロイセン軍は、約15万の兵力を動員し、ライン諸邦に分散するフランス軍の各個撃破を計画した。この時、エルベ川流域でフランス軍を迎え撃ち、ロシアの援軍を待つという作戦も提示されたが、これは消極的に過ぎるとして却下された。しかし、攻勢を決定したにもかかわらず、プロイセン軍の動員は遅々として進まなかった。また、指揮権の所在が明確でないため、作戦計画はまとまらず、各軍の連携は不完全なものとなった。プロイセン軍の南下が開始されたのは、ようやく9月末のことだった。こうしたプロイセン軍の初動の遅れは、フランス軍に態勢を整える時間を与えることとなった。

宣戦布告を受け取ったナポレオンだったが、当初はプロイセン軍の動きを見守っていた。9月末、敵の目標がマインツ方面への進撃と判断したナポレオンは、ただちに分散していた20万の兵力をバンベルクに結集し、逆にプロイセン野戦軍を撃破する作戦を立てた。ナポレオンが立てた作戦は次のようなものであった。まず、モルティエの第8軍団をマインツに置いて、進撃してくるプロイセン軍の対処とし、後方連絡線を保持する。残りの全軍は、テューリンゲン近郊に存在すると見られるプロイセン軍の側面に右翼から回りこむように機動し、戦略的包囲によって敵野戦軍を一挙に撃破しようというものだった。

両軍の戦力

フランス帝国

ラザール・カルノーに始まる一連の改革によって、フランス軍は国民兵と師団制を中心とした軍隊となった。1793年に導入された徴兵制は、フランス軍の動員兵力を飛躍的に増加させた。また、徴集された国民兵には従来の傭兵にはない強みがあった。すなわち、強い愛国心と、それを共有することによって生まれる団結力である。さらに逃亡の恐れが低いために、散兵戦術が使用できるようになった。

一方で、兵力の増加は指揮統制の困難を招いた。また、多方面での作戦を行うためには、従来の軍を1か所に集中させる編成では対応しきれなくなっていた。ここでカルノーが採用したのが師団制だった。師団は歩兵・騎兵・砲兵のいわゆる三兵戦術で構成され、独立して戦闘可能な単位だった。

ナポレオンはこれに改良を加え、師団の上位に軍団を設立した。軍団は独自の兵站組織を持ち、作戦レベルでの独立行動が可能な単位だった。これによってフランス軍は各軍団司令官の可能行動の幅を広げ、多方面にわたる戦力の柔軟な運用が可能となったのである。司令部通信能力の強化によって、一元的な指揮も維持することができた。この柔軟性に富んだ編成が、フランスの高度な兵站処理能力と組み合わさることにより、フランス軍は同時代の軍隊のなかでも特に高い機動力を獲得することに成功していた。

プロイセン王国

総司令官はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が務めたが、彼には軍事指揮官としての経験も能力もなく、実際の指揮は最先任将校のブラウンシュヴァイク公が執っていた。しかし、厳密に指揮権が規定されていたわけではなかったため、プロイセン軍の指揮系統はしばしば混乱した。加えて通信や伝令も徹底しておらず、指揮の不統一とあいまって各軍の連携は困難であった。連携の不備は進軍路の選択に悪影響を与え、結果としてプロイセン軍の機動力を低下させた。

総じてプロイセン軍の軍事編成や戦闘教義は七年戦争当時と大きな変化はなく、フランス軍に比べると旧式であることは否めなかった。マッセンバッハやシャルンホルストらは以前から改革の必要性を訴えていたが、軍部内では彼らは少数派であり、改革は部分的にしか実行されなかった。プロイセン軍が師団制を導入したのは、この1806年の動員時が初めてであった。




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