イエナ・アウエルシュタットの戦い アウエルシュタットの戦い

イエナ・アウエルシュタットの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/15 22:10 UTC 版)

アウエルシュタットの戦い

アウエルシュタットの戦い

10月14日早朝、ダヴーの第3軍団はナウムブルクを進発し、西方のケーゼンへ向かった。同じ頃、ベルナドットの第1軍団は南方のドルンブルクへ向かった。そして、プロイセン軍はヴァイマルからエッカーツブルクを経由してナウムブルクへ向かっていた。

午前6時30分、第3軍団先鋒のギュダン師団はザーレ川を渡った。午前7時、ギュダン師団はハッセンハウゼン付近でプロイセン軍と接触、そのまま交戦に入った。イエナ同様、アウエルシュタットも濃霧で覆われており、両軍ともに交戦開始時点では敵軍の詳細をつかんでいなかった。ギュダンは最初の交戦で捕らえたプロイセン兵を司令部へ送り、ダヴーはこの捕虜から正面に存在するのが敵主力であるとの情報を引き出した。

決戦を控えた両軍の戦力は以下のとおりであった。

  • フランス帝国軍:第3軍団(27,000名、砲45門) - ダヴー(実際には消耗で26,000前後)
    • 第1歩兵師団(10,000名、砲10門前後) - モラン
    • 第2歩兵師団(7,800名、砲8門) - フリアン
    • 第3歩兵師団(8,000名、砲8門) - ギュダン
    • 騎兵旅団(1,500名) - ヴィアラーネ
    • 軍団砲兵(砲17門) - アニック
  • プロイセン王国軍:中央軍(63,000名、砲230門) - フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ブラウンシュヴァイク公
    • 前衛師団(7,000名) - ブリュッヘル
    • 主力軍(31,000名) - ブラウンシュヴァイク公
    • 予備軍(15,000名) - カルクロイト伯
      • 第1師団(7,700名) - キューハイム
      • 第2師団(7,300名) - アルニム
    • 未投入(10,000名)

ダヴーはただちに行動を開始した。まず、ギュダン師団にハッセンハウゼンを中心とした戦列を形成させた。続いて、いまだザーレ川対岸にある後続のモラン師団、フリアン師団、ヴィアラーネ騎兵旅団に戦場に急行するように命じた。さらにベルナドットの第1軍団に急ぎ支援に駆けつけるよう要請した。一方のプロイセン軍も、ブリュッヘル師団を左翼、シュメッタウ師団の先鋒を右翼とし、ギュダン師団に対する戦線を形成していった。

午前8時、最初に攻撃を仕掛けたのはブリュッヘルの騎兵旅団であった。ギュダンは部隊に方陣を組ませてこれに対抗した。ブリュッヘルは4度にわたって騎兵突撃を敢行するも、シュメッタウ師団との連携が十分ではなく、ギュダン師団の堅固な方陣に全て撃退された。

午前8時30分、フリアン師団が戦場に到着、ダヴーはこれをギュダン師団の右翼に展開させた。同じ頃、プロイセン軍もシュメッタウ師団の本隊が到着、そのまま先鋒と合流して戦闘に参加した。後続の部隊は、このシュメッタウ師団を中央に展開、ヴァルテンシュレーヴェン師団先鋒は右翼、オラニエ師団先鋒は左翼についた。この時点でプロイセン軍は少なくとも25,000名、対するフランス軍は15,000名に過ぎなかったが、ダヴーは巧妙に部隊を動かし、プロイセン軍の攻撃をことごとく迎撃した。

午前9時、ヴィアラーネの騎兵旅団が到着、ダヴーはこれを右翼に投入した。ヴィアラーネ旅団はフリアン師団と協力して右翼の攻勢を強め、ブリュッヘル師団を後退させた。これによって生じた空隙を埋めるため、ブラウンシュヴァイクは右翼の部隊を一部左翼へ移動、このためギュダン師団にかかる負担が減少した。敵の攻勢の強い左翼をあえて正面から攻めず、右翼をついて支援に向けさせざるを得なくさせたダヴーの戦術の妙であった。

午前10時、ヴァルテンシュレーヴェン師団本隊が到着、そのまま先鋒と合流して戦闘に参加した。これによってプロイセン軍は、カルクロイト軍とオラニエ師団本隊を除く少なくとも30,000名がそろった。ブラウンシュヴァイクは主攻をハッセンハウゼンに定め、総攻撃を命令した。フランス軍はこの時点で16,000名、この日、もっとも戦力比が大きくなった瞬間だった。しかし、この状況にあってもダヴーは冷静かつ的確に指揮を執り、巧妙な部隊機動でプロイセン軍の攻勢に対処した。ギュダン師団が一時的に後退させられたものの、フランス軍はこの総攻撃に耐え抜いた。のみならず、ブラウンシュヴァイクとシュメッタウを負傷させた。両名は後送されたが、どちらもこの戦傷が元でまもなく死亡した。

最高司令官であるブラウンシュヴァイクの不在は、プロイセン軍の指揮系統を麻痺させた。次席のカルクロイトがただちに指揮権を継承するべきであったが、この時点で彼は戦場に到着しておらず、またブラウンシュヴァイクの負傷報告も届いていなかったため、指揮権の継承が行われなかった。プロイセン軍の旧式な通信能力が致命的な状況を招いたのである。事実上、この時点でプロイセン軍の指揮統制は崩壊し、各部隊級指揮官は独断で交戦することを余儀なくされた。

午前10時30分、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、この日唯一の命令を下した。オラニエ師団本隊を戦場に投入したのである。しかし、王はオラニエ師団を2分割し、両翼の支援にまわすという戦力分散の愚を犯した。これによって両翼を一時的に支えることはできたものの、フランス軍へ効果的な打撃を加えることはできなかった。

午前11時、モラン師団が到着、ダヴーはこれを左翼に投入した。モラン師団は猛攻をかけ、投入されたばかりのオラニエ師団本隊を撃破、続いてヴァルテンシュレーヴェン師団も撃退した。この両師団の撃破直後、ようやくカルクロイト軍が戦場に到着した。キューハイム師団およびアルニム師団が投入されたものの、オラニエ師団とヴァルテンシュレーヴェン師団の敗走兵に前進を阻まれ、迅速な戦闘参加ができなかった。

午前12時、モラン師団はさらに前進、シュメッタウ師団の側面へ向かった。この猛攻を阻止すべく、ヴィルヘルム王子の騎兵旅団がモラン師団に対して突撃を敢行した。しかし、モランは素早く方陣を組ませ、この突撃を全て撃退した。ヴィルヘルム王子騎兵旅団は後退、援護を失ったシュメッタウ師団もまもなく崩壊した。

ここにおいてダヴーは総反攻を命令した。ギュダン師団・フリアン師団も反撃に転じ、指揮系統が崩壊して連携の取れないプロイセン軍を次々と撃破した。キューハイム師団・アルニム師団は友軍の後退を援護すべく、第3軍団の前に立ちはだかるも、あえなく撃退された。第3軍団は勢いに乗じてプロイセン軍を一挙にアウエルシュタットまで押し込んだ。

午後1時までにプロイセン軍の組織的抵抗は終了していた。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の手元には若干の予備兵力が残っていたが、すでに戦意を喪失していた王は、これを投入することなく総退却を開始させた。第3軍団は夜まで追撃を続行し、プロイセン軍の損害を増大させた。

このアウエルシュタットの戦いで、フランス軍第3軍団は総兵力の4分の1にあたる7,000名を失った。しかしこれに対し、プロイセン軍は兵員13,000名、砲115門という多大な損害を出していた。つまりダヴーの第3軍団は、実に2倍以上の敵軍を相手取り、2倍の損害を与え、勝利したのである。これほどの兵力差を覆した戦例は戦史上でも稀であり、ナポレオン戦争中には他に一例もない。フランス軍の質が勝っていたことも勝因の一つではあるが、ダヴーの傑出した戦術指揮能力がなければこの勝利はありえなかったであろう。








固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の関連用語

イエナ・アウエルシュタットの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イエナ・アウエルシュタットの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイエナ・アウエルシュタットの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS