イエナ・アウエルシュタットの戦い 戦後

イエナ・アウエルシュタットの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/15 22:10 UTC 版)

戦後

ナポレオンのベルリン入城
(画) シャルル・メニエ

イエナ・アウエルシュタットでプロイセン主力を打ち破ったフランス軍は、プロイセン本土(ブランデンブルク選帝侯領)まで一挙に侵攻した。10月25日、フランス軍は首都ベルリンへ入城した。その際、ナポレオンは戦功第一のダヴーに一番乗りの栄誉を与えた。11月半ばまでにフランス軍は全土を制圧、最終的に死亡24,000名、捕虜140,000名の損害を出してプロイセン軍は壊滅した。プロイセン軍で最後まで抵抗を続けたのは、リューベックのブリュッヘルとシャルンホルスト、そしてマクデブルクのグナイゼナウの指揮する軍であった。彼らは後に、プロイセン軍の改革に大きな役割を果たすこととなる。

こうしてプロイセンはフランスの支配下に置かれることとなったが、戦争そのものはまだ終わらなかった。ケーニヒスベルクに逃亡したフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ロシアの援軍を引き込み、フランスから国土を回復しようとしていた。これに応え、ロシア軍は約10万の軍を東プロイセンへ集結させた。ナポレオンはプロイセンの側面の安全を確保するため、そしてロシア軍を打ち破って講和の席に着かせるため、ポーランドへの侵攻を開始するのである。

プロイセン王に代わって王妃ルイーゼがフランスに対して講和を求めることになった。ルイーゼはナポレオンにプロイセンに対する温厚な処置を求めたが、ナポレオンは王妃に対して極めて冷淡であった。プロイセンの戦後処理は翌年7月のティルジットの和約によって決定され、プロイセンはエルベ川以西の領土とポーランドを失い、1億2000万フランの賠償金を課せられた。陸軍の人員も4万人にまで制限され、長い雌伏を耐えることを迫られた。








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