イエナ・アウエルシュタットの戦い
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結果と影響
ダヴーの副官トロブリアンからアウエルシュタットの戦いの報告を聞いたナポレオンは、当初その内容を信じず、「貴官の元帥は物が二重に見えるに違いない」とからかった(ダヴーは極度の近眼だった)。しかし、報告が真実だとわかると、驚愕し、ダヴーを最大限の賛辞で褒め称えた。翌日発行された大陸軍広報第5号にはアウエルシュタットの戦いについて以下のように記している。
我が軍の右翼において、ダヴー元帥は奇跡を成し遂げた。ケーゼンを通って進出せんとした敵軍の大半を包囲するのみならず、3リュー以上にわたって押し返し、撃破したのである。かの元帥は武人の第一の素質である卓越した勇気、堅固なる性格を発揮したのだ。
— 大陸軍広報第5号
さらにナポレオンは1808年にはダヴーにアウエルシュタット公爵の称号を与えた。
対照的に叱責されたのがベルナドットだった。ベルナドットの第1軍団は、ダヴーの援軍に駆けつけず、一方の主戦場であるイエナにも参加しなかった。第1軍団は緩慢に行軍し、ドルンブルクを経由し、アポロダに到着したのは14日の夕刻であった。敵の主力を取り逃す可能性があったことを考えれば、ベルナドットの行動は批判されて当然であった。ナポレオンはベルナドットの処分も考えたが、彼の妻でナポレオンのかつての婚約者であるデジレ・クラリーへの配慮から処分は見送られたという。
ただし、こうしたベルナドット批判には多くの反論がある。例えば、ドルンブルク周辺の地形のために行軍が困難であったこと、あるいは強行軍でも戦場に駆けつけることは時間的に不可能であったこと、などである。もとより、第3軍団の危機的状況を招いたのは、上述のようにナポレオン自身の誤解に基づく命令であった。多くの歴史家は、このナポレオンの失敗を覆い隠すため、いわばスケープゴートとしてベルナドットが批判されたのではないか、と指摘している。
いずれにせよ、フランス軍は勝利した。両戦闘におけるプロイセン軍の損害は兵員38,000名、砲227門という甚大なものであった。その後の追撃戦は一方的な展開となった。傭兵軍であるプロイセン軍は、一度崩れると再編が困難であり、フランス軍の追撃に対して踏みとどまることができなかったのである。事実上、この戦いに敗北した時点でプロイセン軍は崩壊したといってよく、イエナ・アウエルシュタットの戦いは真に決定的な戦いであった。
揚々とイエナに入城するナポレオンを迎える市民の中に、当時イエナ大学で教授を務める哲学者ヘーゲルがいた。ナポレオンを見たヘーゲルは次のように評している。
「 | 「世界精神が馬に乗っている」 „Weltseele zu Pferde” |
」 |
固有名詞の分類
ナポレオン戦争の戦闘 |
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プロイセンの戦闘 |
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