しばの‐りつざん【柴野栗山】
しばのりつざん 【柴野栗山】
柴野栗山
柴野栗山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/12 02:02 UTC 版)
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『近世名家肖像』より
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| 生誕 | 元文元年(1736年) |
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| 死没 | 文化4年12月1日(1807年12月29日) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 地域 | |
| 学派 | 朱子学 |
| 研究 | |
| 研究分野 | 朱子学 |
| 概念 | 寛政異学の禁を指導した |
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影響を受けた人物・事象・作品
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影響を与えた人物・事象・作品
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柴野 栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代の儒学者・文人である。諱は邦彦、字は彦輔である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。
生涯
元文元年(1736年)に讃岐国三木郡牟礼村(現:香川県高松市牟礼町牟礼)で誕生する。父は柴野軌逵、母は柴野於澤である。寛延元年(1748年)に高松藩の儒学者後藤芝山の元へ通い、儒学を習った。宝暦3年(1753年)に中村文輔と共に、江戸に赴き湯島聖堂で学問を学んだ。
湯島聖堂の学習を終えた柴野は、明和2年(1765年)に高橋図南から国学を中心に学問を学び、明和4年(1767年)に徳島藩に儒学者として仕えるようになった。明和5年(1768年)には徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴くこととなる。
江戸に着いた後、安永5年(1776年)に徳島藩当主の侍読に就任する。天明7年(1787年)には、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、寛政2年(1790年)に湯島聖堂の最高責任者となった[1][2]。
文化元年(1804年)に白内障から回復したことに対して、蘇軾が王彦若に贈った詩『贈眼医王彦若』を書いて高松藩藩医三井惟親(三井光慶)に贈った。
著作
- 『詩集日本漢詩 第7巻 栗山堂詩集』4巻 汲古書院、1987年
- 『註釈増補栗山文集』阿河準三編. 栗山顕彰会、1987年
- 『柴野栗山の手紙』井下香泉 解訳編. 讃岐先賢顕彰会、2004年
関連書籍
登場作品
- てつきのこ『マンガ柴野栗山 一歩、そしてまた一歩』牟礼町教育委員会(1991年)
- べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜(2025年、NHK大河ドラマ、演:嶋田久作)
脚注
関連項目
外部リンク
柴野栗山と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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